明治憲政の美学






明治憲法体制は、本来、19世紀のヨーロッパ社会の基調となっていた、階級社会にもとづく立憲君主制を目指しておきながら、結果として、超大衆社会の「40年体制」に収斂し、それを維持・再生・強化させる仕組みとしての「戦後民主主義」、すなわち「日本国憲法」を生み出してしまった。これは一つには、20世紀という「グローバルな大衆社会化」の時代がもたらした結果である。

しかし、理由をそれだけに帰することはできない。ある意味では戦後の体制より、明治憲法下にあった昭和前期のほうが、より無責任体制が貫徹していたと見ることもできる。だからこそ戦争へと雪崩をうったわけだし、今でも「無責任系ナショナリズム」として、その時代にロマンを求めるヒトも多い。だからこそ、明治憲法体制の中に、「甘え・無責任」を行動原理とする大衆を生み出すメカニズムが内包されていたと見る必要があるだろう。

久野収が「現代日本の思想」(1956岩波書店)でのべたように、明治以来の伝統的国家主義は、日本思想史全体を覆う独自の「思想観」を越えることはなく、思想というより制度であり、思想はこの制度をまもり、動かすための解釈のシステム以上に出ることはなかった。そしてこの制度を作り出したのは伊藤博文を指導者とする明治の元老たちであった。

歴史家ブルックハルトの言葉ではないが、その意味で明治国家は何よりも一つの見事な芸術作品である。後発の近代国家であるため、西欧各国の事例をこと細かく参考にできたがゆえに、その「作品」は、余りに精巧に、かつ緻密にできあがることとなってしまった。在来の日本の伝統も外来の制度や思想も、すべてその作品の素材であり、それらがそのまま作品としての国家の構造を支配したのではない。

大日本帝国憲法にしても、教育勅語にしても、あまりに高尚かつ緻密に作られたがゆえに、その実態をつかむためには高度の人間性と教養が必要であった。したがって明治憲法下の制度や運用は、その「解釈のシステム」にゆだねられることになった。これは、庶民の「顕教」(通俗的)と、エリートの「密教」(高等的)という二重システムになっており、天皇制の解釈と運営も二重構造を前提としていた。

タテマエである「顕教」は、初等教育や軍隊で教えられた、天皇を無限の権威と権力をもつ絶対君主とみる解釈のシステムである。その一方、ホンネとしての「密教」は、大学及び高等文官試験を通って初めて明らかにされる、憲法その他により限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。この二つのシステムを、「国家のCEO」としての天皇が結び付け、一つの国家として機能させようとしたのだ。

一般大衆から見る「顕教の大日本帝国」と、政治的エリートから見る「密教の大日本帝国」が並存しているところが、階級制度にもとづく近代立憲君主国家としての明治憲法体制の「ツボ」である。これにより、近代的自我の確立しない「甘え・無責任」を行動原理とする大衆を、近代的自我である「自立・自己責任」を行動原理とするエリートがコントロールし、大衆のマインドのボトムアップを図ることなく、近代化・富国強兵に邁進できた。

こうして「国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、事実上、天皇国家最高機関説を採用する」(同上)システムが導入されたわけである。しかし、密教が上層部の解釈にとどまる一方、大正デモクラシー以降、明治期の元老が予期しなかったほどに、「顕教」しか知らない人々が社会にはびこり実権を持つ「大衆社会化」が急速に進んだ。

このため、軍部主体の「顕教による密教征伐」が起こり、無責任な超国家主義が跋扈することとなった。いわば、アタマを切り離したカラダだけが暴走することになる。いや、カラダが無責任に暴走するために、アタマを切り捨てたというべきだろう。実際、それらがおこったのが、まさに226事件の収拾とポツダム宣言の受諾という、昭和天皇の生涯2度の憲法からの逸脱の間のできごとであったことに、芸術的であったがゆえの明治体制の脆さを見て取ることができる。




(06/08/18)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる