業に従う








どんな宗教でも、宗教心というのは、自分を超越した何かが存在し、全ての運命はそれによって決められてしまう、ことを認め、それに従うことからはじまる。全ての試練も、チャンスも、どれもみな、「超越的な存在」から自分に与えられたものである。それを、力ずくで変えて行こうとするのは、神なり阿弥陀様なり、超越的な存在による思し召しに「叛旗」を翻そうということである。それは、その暖かい手の中から外に出ることを意味する。

もちろん、その権利は全ての人に与えられているであろう。しかし、ひとたび「叛旗」を翻した以上、「恩寵」も与えられなくなることを自覚する必要がある。まさに「神の手の中」というか、超越した存在の恩寵に守られて、「甘えて」生きてゆくのか。「自立・自己責任」で、全てのことに自分でオトシマエをつけて生きて行くのか。運命に従わず、運命を変えようという行動をとる前提として、この二つの生き方のどちらを選ぶのか、自ら選び取る必要がある。

自分にも幾許かの責任があるし、相手にも幾許かの責任がある事柄について、ことさら相手の責任だけをあげつらい、自分側の責任までも一切おしつけようとする人がいる。自分が悲劇の主人公になることで「ベビーフェイス」となり、相手を「ヒール」に貶め、単なる心証だけで100%相手の責任にしようとすること。「甘え・無責任」な人たちにとっての「訴訟」の多くは、これがモチベーションとなっている。

一人の人と一人の人、という関係なら、自分も相手もガチンコである。たしかに、その範囲においては「ゼロサムゲーム」なので、相手を悪者にしてしまえば、自分は責任を問われない。ただ、この構図は、いわばサシで全財産を賭け合う「丁半賭博」と同じである。そのゲームに参加するための前提条件として、「自分が負けて全財産を失っても構わない」という、結果に対する「自己責任」を覚悟していることが必須となっている。

ところが、こういう訴訟をする人に限って、自分が負けたあとも、負け惜しみタラタラで、相手の非難ばかりあげつらうことが多い。それはとりもなおさず、彼ら・彼女らが「自己責任の丁半賭博」に参加する資格がないことを示している。こういう訴訟をする人は、自己責任で自分の運命を受け入れられないからこそ、少しでも相手にも責任があれば、そこに責任を押し付けようとし、訴訟を起す。「自己責任」の能力があれば、そもそも訴訟にはならないのだ。

「甘え・無責任」に生きてゆくためには、超越した存在の「思し召し」に従うことが大前提である。それは、とりもなおさず、自分の身に起ることは、良いことも、悪いことも、すべてそのまま受け入れて生きることを意味する。身に降りかかる全てに対し、あるがままに従ってはじめて、人は、個人の責任から逃れ、より大きな存在の加護の下に、思う存分「甘え・無責任」に生きることができる。

しかし、日本人の多くは、流石に「無宗教」といわれるだけある。それが顕著に表れるのが、いわゆる「苦しい時の神頼み」である。自分に都合の良いことは、「神の恩寵」に期待し、また良い結果を「ご利益」としてすんなり受け入れる。しかし、自分に都合の悪いことや不利益が発生すると、それもまた「思し召し」であるとは思わず拒否し、他の人間に責任を押し付けようとする。これは、まさに「神をも恐れぬ」行為といわざるを得ない。

だが、日本の大衆が決して宗教を受け入れないワケではない。俗に新興宗教といわれているが、いろいろな宗派が大衆の支持を受け、深く帰依した信者を多く抱えている。それどころか、極めて近代的な立憲君主制の設計図だった「大日本帝国憲法」「教育勅語」を、その合理的精神とは関係なく宗教化し、まさに一億総「無責任教」教徒となっていたのも、そう昔の話ではない。実は日本の大衆には、宗教が必要なのだ。宗派は問わないが、日本が、そして日本人が生き残るためには、今こそ、国教を樹立すべきときである。



(06/08/25)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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