教育基本法






教育基本法に関する議論というと、「いまの教育基本法は、昭和22年アメリカの占領下でできたものであるから問題がある」と考える人が多い。しかしこれは、教育基本法の成立過程を理解していない人間が、勝手にその成立プロセスや位置付けを曲解して詭弁をふるっているに過ぎない。こういう論点に立つ限り、教育基本法の抱える「真の問題点」をとらえることはできないし、そこを解決しない限り、表面的な文言をいくら改定しても、同じ亡霊は、必ず現れてくる。

そもそも教育基本法の制定時においては、教育の理念を示す法的な存在としては教育勅語がまだ存在し、それが効力を持っていたことを忘れてはならない。教育基本法は、巷間いわれているように、教育勅語を廃止し、それに代って登場したものではない。教育基本法は教育勅語と矛盾・対立するものではなく、相互補完的に並存するものとして捉えられていたのだ。

さらに日本国憲法が施行されたのは昭和22年5月であり、教育基本法が施行された昭和22年3月は、まだ大日本帝国憲法の時代なのである。その体制の中では、基本法の位置付けは極めて明確であった。この時点においては、教育基本法は与えられた使命に見合った条文しか持っていなかったとしても、何ら問題はなかった。現在も生きている教育基本法は、実は、大日本帝国憲法と教育勅語という前提があってはじめて生きる法律だったのだ。

むしろ問題は、戦後の政治的・制度的変化の中でそのバックボーンであった「体制」が崩れてしまい、条文だけが一人歩きをせざるを得なくなったことにある。このため教育基本法は、日本の法体系の中でも特異なポジショニングにある特殊法になってしまった。だがこれは、戦後の混乱の中で運命をもてあそばれた、「戦災孤児」のようなものなのだ。この「運命」を無視して、現在の条文だけを云々しても始まらない。

もし、占領軍の政策の問題点を指摘するとするならば、それは教育基本法の制定にあるのではなく、教育基本法と車の両輪の関係に合った教育勅語だけを、その後否定したことにある。本来ならば、教育勅語とともに現行の教育基本法も廃止し、新たに、教育の基本理念を明解に成文化した「教育新法」を制定すべきだったのだ。

この問題を具体的にいえば、教育基本法の条文自体は、極めて原理的、基本的な理念を述べたものにすぎず、ほとんど独自の理念やビジョン的要素を持っていない、ということになる。だが制定当時には、独自の理念やビジョンを持っている「教育勅語」が存在し、教育基本法は、それと並存することでにより補完し合う関係にあった以上、当然のことである。

しかし、その後の変化の中で「教育勅語」が形式的に否定されるに至り、教育基本法だけが孤立して残存した。このため、その中に教育の理念や意味付けも求める傾向が出てきた。それは、もともと書かれていないものを読み取る行為である。それだけにいろいろな立場の人々が、「我田引水」的な解釈をし、ひとりよがりの立場から論争を引き起こしているに過ぎない。

このように、教育基本法の問題を考える場合は、その内容ではなく、制定の背景や基本法をめぐる駆け引き、教育勅語廃止前後のプロセス等の問題に重点をおき検討する必要がある。またその後の「教育基本法」をめぐる議論は、内容に重きを置く立場と、形式に重きを置く立場という、「教育勅語」をめぐる問題とうり二つの構造をもっており、この点に着目することで、日本における「教育問題」の構造を分析することもできる。




(06/09/08)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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