日本のしつけ





この十年来、青少年による凶悪犯罪やいじめなどがマスコミによって大きくとり上げられ、その原因として家庭の教育・しつけの衰退が言われることが多い。さすがに最近は実際のデータに基づき、万引等の軽微な少年犯罪こそ激増しているものの、実際に少年による凶悪犯罪が増えているわけではないことが主張されるようになった。しかし、世の中一般の風潮としては、凶悪少年犯罪に関する関心は高い。

基本的にこの傾向は、生活保守主義の広がりにより、量的なモノ以上に、「社会の安定を脅かす存在」として青少年の引き起こす事件がクローズアップされるためである。そうした中で、親たちの「子供をよりよく育てよう」とする関心や熱意は強まってきており、いじめにせよ凶悪事件にせよ、自分の子供がいつ被害者になるかもしれないという不安が、ニュースへの関心をかき立て、青少年の事件への社会側の過剰な反応を生み出している、ということができる。

凶悪犯罪を説明する際、「家庭のしつけに問題があった」と言う論は、非常に分かりやすい。単純明快な言説は、人々に事件の性質と原因とをストレートに納得させ、事件を常識・定説の枠内で解釈可能なものとすることで、人々の不安に説明を与える役割を果している。また時代の流れとして、ロジカルな説明より、情緒的に納得できる説明を求める傾向が強まっていることも、これを加速させている。

全体としていうならば、家族のしつけは衰えるどころか、以前よりもはるかに熱心になされるようになってきている。かつての農村においては、「家族のしつけ」という役割は、共同体全体によって担われていた。しかし今は、家庭が子供のしつけ・教育の責任を、全て担わなくてはならない社会の仕組みになった。それゆえ、その責任を担いきれない家庭が生じてしまうのが目に付く。実は問題は、この「格差」にあるのだ。

かつての日本社会は、社会階層差や地域差が大きく、どの家でも「厳しいしつけ」をしていたと言うわけではなかった。厳しいしつけがあったのは、都市部であり、裕福であり、家柄のいい家庭であった。そうした中で、比較的豊かな階層の出身者が多い学者・文化人や政治家などは、自分の家のしつけの思い出を不当に拡大して、「昔は(どの家でも)家庭のしつけが厳しかった」と断定しているのが現状である。

そこでは、きびしいしつけなど思いもよらない、多くの家庭があったことが忘れられている。しつけは親から子へ、子から孫へ受け継がれるものである以上、所得こそ平準化した現代でも、歴然とした「格差」が残っていることを見逃すべきではない。いじめなどについても、評論家に代表される現代の大人達は、かつて自分の身の回りで起こった軽微ないじめを、マスコミが大々的に書き立てる現在の極端ないじめと比較する傾向が強い。

日本社会が豊かになっていくプロセスの中で、それまで一部上流家庭のみで行われていた家庭内でのしつけが、広く一般化し、中流階級を中心とした幅広い層で行われるようになった。現代のしつけの衰退論とは、かつての一部上流階級のしつけ・教育と、大衆化したしつけの比較でしかない。すなわち「家庭の教育力低下」の議論は、逆説的に「家庭が一定の水準以上の教育をして然るべき」社会的コンセンサスを示しているにすぎない。

問題は、「家庭内での教育力」を重視する層の大部分が、「家庭内の教育力」に問題・欠陥のある層だという点にある。実は、自分を律することこそ教育やしつけの第一歩である。自分がキチンとできないことを、子供にさせることはできない。そもそもこの層は「甘え・無責任」なヒトたちであり、自分が努力することを放棄し、それを社会問題にすりかえているだけなのだ。必要なのは、他人事のように批判するのではなく、「自分たちができないのなら、それでいい」とオリてしまうことなのだ。




(06/09/22)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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