貧民の、貧民による、貧民のための政治






日本の戦時体制というと、当時枢軸国として三国同盟を結んでいたドイツ・イタリアと並んで、全体主義・ファシズム体制として語られることが多い。それを論拠として、ドイツ、イタリアでは、ファシズムに対する戦後の「懺悔」があったのに、日本は反省が不充分だ、というもの言いがなされることが多い。日本の戦時体制は、全体主義的傾向が強かったことは確かだ。しかし、果たして独・伊のそれと同一視できるものなのだろうか。

日・独・伊の全体主義は、結果の平等を求める大衆のパワーが結実した社会体制、ということでは共通している。しかし、その「平等」を求める方向性が全く違う。ヨーロッパにおいては、社会の変革、理想社会への「夢」を提示し、そこに向って大衆のパワーを集結するコトを目指した。その後、フォルクスワーゲンとして結実した、ヒトラーの「国民車構想」などその典型だろう。いわば、「ガマンのワイマール体制」に対して、「夢のナチス体制」を提示したのだ。

このように、ファシズムはその根幹において、「持たざる者も、それなりに持てる」とことを、理念としては目指していた。この限りにおいては、ユートピア的であり、マルクスの理念とも共通している。しかし、日本においてはここが根本的に異なる。日本の「維新体制」では、「持てる者を、持たざる者と同じレベルに引き摺り下ろす」ことで、「平等」を実現しようとした。確かに平等は平等だが、極めて後ろ向きな発想である。

こう考えて行くと、日本的全体主義は、戦時下のスローガンとして知られる「贅沢は敵だ」というキーワードにより象徴されることがわかる。抜け駆けして成功し、自分たちだけ良い思いをしている「勝ち組」を妬み、「負け組」みんなが平等に「傷を舐めあえる」体制。これこそが、日本の全体主義の本質なのだ。みんながみんな無産者になれば、みんな平等になる。だからこそ、当時、社会主義政党がこぞって戦時体制を支持したのだ。

同じく、1930年代から40年代にかけて成立した全体主義体制ではあるものの、日本における「戦時体制」とヨーロッパにおける「ファシズム体制」との違いがここにある。夢か、ガマンか。発散型か、収束型か。実は、この両者は全く相容れない要素を持っている。戦後、独・伊のファシズム体制は崩壊したのに対し、日本の戦時体制は、表面的な主義主張こそ変えたものの、実質的な中身はそのまま続いた理由もここにある。

「40年体制」は、戦時体制として成立し、戦後も大衆社会日本の基本構造として、維持・強化されつづけてきた。そしてその本質は、「低きに合わせる」ところにある。「40年体制」とは、まさに「貧民の、貧民による、貧民のための政治」なのだ。もともと、貧しい人たちが平等に貧しい社会を目指したものだけに、戦略的な発想が貧しく、理念としてのレベルも低いものとなっている。

この点が明確になると、戦後の高度成長の成果が、「利権バラ撒きによる、利益再配分」というカタチで「結実」していったのも、当然の帰着として理解できよう。都市部の成功の結果を、公共事業というカタチで、貧しい地方に分配する。貿易収支の黒字により得られた国富を、更なる成長のための社会インフラの充実のための投資とせず、利用度の低いハコモノを作ることで浪費する。

本来の「国家戦略」という視点からは全くもって合理性に欠く政策が、20世紀後半の日本の政治においては、基本スタンスとなっていた。その理由も、「貧民の、貧民による、貧民のための政治」という40年体制の本質を考えれば、容易に解明できる。それだけではない。自民党と社会党という、西欧的論理からすれば「対立」するはずの政党が、55年体制として、互いにもたれあう構造を作れたのも、これが理由である。日本の大衆は、いくらキャッシュフローだけ潤沢になっても、心がが貧しいわけは、そもそも、元が「貧民」でからなのだ。


(06/10/06)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる