能力に応じた分配






最近、中高年フリーターなどといわれるように、フルタイムの非正規労働者の存在が、しばしば問題にされる。確かに、社会統計上、その数が無視できないくらい拡大しているとともに、その層特有の意識や行動も顕著な傾向として見られるようになったきた。この人々の存在をどう解釈するかはさておき、存在自体はすでに周知の事実となったことは間違いない。

少子化の理由の一つとして、この層が「結婚できない人々」になっている、という分析もよく行われているように、昨今の社会的問題の多くとも密接な関係をもっている。しかし、非正規労働者の議論においては、意識的か否かはともかく、重大な事実の混同がなされていることを見逃してはならない。それは、「非正規労働者が身分的に不安定」であることと、「非正規労働者の収入が低い」ことである。

この二つは、同時に発生しているとしても、独立の事象である。各々問題の影響は、各々別々に起りうるし、取るべき対策も当然異なってくる。たとえば先ほどの結婚の問題についていうなら、前者の問題は「身分が不安定だから、将来設計ができず、結婚に踏み切れない」こととなるし、後者の問題は「結婚や新生活に関する資金がないため、結婚できない」こととなる。

これが独立していることは、「現在はかなりの収入を得ていても、これからも得られる保証が全くない」ヤツを考えてみればすぐわかる。こういう男は、女性から見た場合、刹那的なデートの相手としてはちやほやされても、一生の伴侶として選ばれる可能性は極めて低い。女は、計算高いのだ。いわゆる「だめんず」の多くが、こういう男であることを考えれば、その結婚への敷居の高さは明確だろう。

ここからもわかるように、社会生活という面で非正規労働者と正規労働者を分けるポイントは、「身分の安定性」にあり、「収入の多少」ではない。非正規労働者が、社会的問題となる理由もここにある。しかし、世の中でこの問題を語る時には、なぜか「収入の差」の問題とされてしまうことが多い。これは、日本社会にはびこる「甘え・無責任」体制が求める「結果の平等」意識が、今でも人々の心の中に強く根ざしているからであろう。

実は、ここにこそ問題がある。高度成長期の日本的雇用を特徴付けるものとして、「終身雇用」と「年功給」という制度があった。このうち終身雇用は、それ自体としてはけっして間違っていないし、問題があるわけでもない。ある仕事をした労働者に対し同じ給料を支払うのなら、全く経験のないヒトを雇うより、経験豊富なヒトを雇ったほうが、余程効率がいい。このような選択ができるなら、誰でもそう判断するだろう。

そういう意味では、社内で経験を積んだ人材を囲い込むシステムとしての終身雇用は、それなりに合理性をもったシステムでもある。となると、問題は「年功給」のほうである。やっている仕事の内容や、生み出す付加価値と関係なく、支給される給料が上がって行くシステム。これが残存しているから、問題を生じている。少なくとも合理的な経営判断ができる企業なら、現在のフリーターと同じ給与水準で正社員を雇用できるなら、すぐにでも正社員化するだろう。

それを阻んでいるのは、既得権としての悪平等的再配分を求め続ける、仕事をしない正社員の側である。彼らは、現状においては、本来自分が生み出した価値以上に配分を受けている。正社員の中には高い付加価値を生み出している人材もいる。だからこそ、企業としての付加価値が生まれ、利益を生み出すことができる。悪平等的な「甘え・無責任」正社員は、こういう付加価値を生み出した社員に寄生し、搾取することで、実態以上の収入を得ているに過ぎない。

これを許してしまったのは、異常なまでに被雇用側の権利を重視した、日本の労働や雇用に関連する法体系の問題ということができる。一見、これらの法律は、GHQが「戦後民主化」の中で持ち込んだように思われがちだ。しかし、その本質が「甘え・無責任」にあることに気付けば、その素性はすぐにわかる。そう、まさにこれもまた、あの無産者と貧農の支持を受け、その層出身の「青年将校」と「維新官僚」築き上げた、「40年体制」の本質そのものなのだと。



(06/10/20)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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