淘汰の原理







ある市場において、競争原理が成り立つには、前提となる条件が二つある。その一つは、参入障壁がない「機会の平等」が実現していること。これについては、自由競争の大前提でもあり、広く認識されているポイントだろう。もう一つは、敗者が居座ることのない、「速やかな敗退」が貫徹していること。これについては、こと日本においては、認知度はイマイチかもしれない。

これは、競争原理が働くためには、熱力学でいう「開いた系」になっていることが前提となっているからだ。「常に勝ちつづけない限り、そこにいつづけられない」環境でなくては、真の競争原理とはいえない。敗者が退くとともに、それに代ってより強力な挑戦者が現れてはじめて、競争原理は機能する。競争原理、市場原理が成り立つためには、敗者が自然に淘汰されることがなによりも大切である。この「淘汰の原理」が働いてはじめて、競争原理が機能する。

昨今、消費者金融の金利に関する法的上限の問題が議論になるとともに、債務返済不能者やそれに対する取りたてが問題になっている。特に、債務者の生命保険への加入が問題視されている。しかしこれは、至って精神論、感情論的な議論である。貸す方からすれば、債務者の将来収入が見込めるからこそ、無担保で貸せるのだ。そこに対して、リスクヘッジをかけるのは、ビジネスとしては至って合理的な判断ではないか。

生命保険ヘの加入とは独立に、死ぬ死なないは、本人の勝手である。生きて稼いで返すのがいやだから、死んで保険料で返すというのも、本人の選択でしかない。それをとやかく言うべきではない。それより問題は、返済不能に陥る債務者自身にある。返済のメドがないほど無計画に借り入れ、破綻してしまうような人間は、その人間性自体が破綻している。真っ当な人間なら、そこまで借入を起さない。

借りても返せないなら、借りるのをガマンするのが、社会的な生物としての人間である。それを借りてしまうというのだから、彼らは「人間として生きるための、最低限の我慢」ができないヤツらということになる。確かに、こういう性癖のヒトはいる。それは、生まれつきの性癖であり、まさに「死んでも直らない」モノだ。こういう、ガマンができないという「病状」は、ギャンブル中毒にしろ、薬物中毒にしろ、しばしば見られるものだ。

覚醒剤は、一旦手を出したら最後、人間をヤメるしかなくなる危険性を持っていることは、よく知られている。こんなものに手を出したら、本当に死んでしまう。これは、実によくできたアイロニーである。覚醒剤に手を出すようなヤツは、「真っ当な社会生活を送る能力がない」人間なのだ。社会的に抹殺しないかぎり、彼は社会に害悪をばら撒くだけだ。これを、社会の側が抹殺したのでは、アメリカの西部劇の「リンチ」になってしまう。

しかし、自分から「身を滅ぼしてくれる」のなら、こんないいことはない。ヤク中が、オーバードーズで死んだって、誰も困らない。それどころか、社会的には、大いなるマイナスが除去されるのだから、メリットの方が大きい。そんなワケで、ハマってしまえば最後には死んでしまう覚醒剤は、見事な自己完結を見せている。「真っ当な社会生活を送る能力がない」人間という意味では、返済不能に陥った多重債務者も同じだ。

こういう悪癖は、死ぬまで直らない。いくら周りが努力しても、矯正しようがない。痴漢常習者は、何度捕まっても、またやってしまうのとおなじだ。つまり、こういう人間は、生きているだけで、周りの社会に迷惑をかける。1960年代には、いろいろな汚染物質を、煤煙や汚水としてバラ撒き、周りの住民に病気などの被害を与える「公害」が社会問題となった。これと同じ。真っ当な社会生活が遅れない、こういう人格破綻者は、「生きる公害」である。これが、自分で自分の命をたつというのだから、こんないいことはないではないか。

借りたい人格破綻者には、どんどん貸せばいい。それで、首が回らなくなって自殺してくれるのなら、こんなに社会にとってプラスになることはない。いっそ、簡単に死ねて、そのまま焼いて骨壷になって出てくるような「自動自殺機」でも作ってあげればいい。ゴミ回収のように、ボランティアで殺してあげるのもいいだろう。日本は人口減少とかいうけれど、まだまだ淘汰すべき、むだメシ食いや、迷惑男は数多いのだ。



(06/10/27)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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