イジメ社会 日本






昨今、またぞろ「イジメ」の問題が大きく取り上げられている。ジャーナリズムが、旬な話題として取り上げるかどうかは時により左右される。「イジメを苦にして自殺」とか報じられれば、波及効果が生じて、「それじゃ、ぼくも、わたしも」という感じで、機会があれば自殺したかったという「自殺予備軍」の背中を押す。この繰り返しが、いわゆるブーメラン効果となり、イジメによる自殺が社会現象化する。

いつも言っているように、いくらマスメディアが物量作戦を投じても、火のないところに煙を起こすことはできない。しかしメディアは、潜在意識の中に潜んでいたものを、顕在化させることに関しては圧倒的な力を持つ。コンテンツが人々の心の中にある何かと共鳴しなくては、メディアは無力なのだ。「ヒットする」とか「ウワサになる」とかいうメカニズムは、この潜在意識の顕在化にある。

そういう意味では、「生徒の自殺」の原因こそイジメたが、直接背中を押しているのは、「イジメ自殺」をことさら取り上げる報道である。タンクの中にガソリンがいくらあっても、それだけでは何も起らない。タンクに入れておくだけで爆発したのでは、自動車なんて恐くて乗っていられない。ガソリンが爆発するのは、火をつけるからである。そして、火をつけているのが報道なのだ。

こういう具合に、イジメは数年おきに世の話題となる。しかしイジメ自体は、話題にならないだけで、常に起っている。決してなくなったり、すたれたりしない。いつの時代でも、どういう集団でも、イジメは必ず起きる。それはイジメが、日本社会においては必然的に存在するものだからだ。イジメや差別がなくては、日本の大衆社会は成り立たない。いわば、必要悪なのだ。

日本の大衆の行動原理の基本は、「甘え・無責任」にある。日本の大衆が構成する組織は、すべからく相互に甘え、責任を曖昧にすることを目的としている。組織の目的がそこにある以上、野放図に組織を広げて行くと、その構造や領域も曖昧にならざるを得ない。最終的には、「日本列島に住む全ての人間」というのが、唯一の括りになってしまう。これはこれで、日本人の意識の基盤にあるのだが、ここまでひろがったのでは、責任を曖昧にできない。

甘え・無責任のための組織となるためには、あくまでも組織に「ウチとソト」があり、外側に対しては、人格のない「組織」が責任主体となるとともに、内側においては、特定個人の責任を追及できない「曖昧な構造」を取ることが必要である。このため、日本の組織は、構造的には曖昧なモノとならざるを得ない。構造面から「ウチとソト」を定義できない組織において、「ウチとソト」を明確に区別するにはどうしたらいいか。

そこで求められるのが、内側の人間と明らかに違うトコロを持った、「外側の人間のリファレンス」である。人身御供が一人でもいて、誰もが「自分とアイツとは違う」と思えば、その「違う」という一点において共通の意識が生まれ、組織としての求心力になる。「甘え・無責任」な日本の大衆が、組織や集団を創り出すためには、この「人身御供」が絶対的に必要なのだ。

そして、イジメや差別とは、まさに「人身御供」を創り出すプロセスである。誰かをイジメなくては、集団としてのアイデンティティーを持てない、「甘え・無責任」な日本の大衆。原因がここにある以上、イジメは絶対になくならない。江戸時代以来、400年近くにわたって「甘え・無責任」を貫いてきた日本の大衆が、「自立・自己責任」に生まれ変わる可能性などあり得ないからだ。

こういう構造的な原因がある以上、「イジメはよくない」「イジメはやめよう」といくら叫んだところで、絶滅するはずがない。もし、イジメを問題視するのなら、イジメる側ではなく、イジメられる側の意識改革を目指す必要がある。村八分になっても気にせず、集団に頼らず一人で生きて行けばいい。集団から離れてしまえば、人身御供にさえならなくなる。それは、決して不可能なことではない。もう何十年も、「おたく」は、そうやって生きてきたのだから。



(06/10/27)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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