瓢箪からコマ






各地の高校で、必修科目の意図的な履修漏れが、続々と発覚している。昨今の論調を見ると、こういう行為を学校ぐるみでやることの是非を、建前論として問うている議論が多い。それはそれとして重要なテーマとは認めるが、この事件の面白いところは、図らずも教育問題に関して、誰もが見落としていたポイントを、創発的に浮き上がらせた点にある。まさに、瓢箪からコマ、というところだろうか。

それはすなわち、ある科目を履修させるかどうかという「カリキュラム」の作成に関しては、実はトップダウンのチェックはなく、各学校が腹をくくって決めてしまえば、どうにでもできる、ということである。実際に行われている授業内容がどうであろうと、建前としての授業内容が書面上完備していれば、それで一丁上がり。その結果に関しては、お上は調べもしないし、文句もいわない、ということである。

教育問題についてある程度かじったことがあり、問題の構造について造詣の深いヒトならわかると思うが、実は、校門の内側については、校長はかなりの権限を持っている。校長がひとたび、「何が起っても、結果については責任をとる」と腹をくくったなら、相当なことができるのだ。まさに、今回の例のように、「とらなかった授業を履修したことにする」ことさえできることが、それを如実に物語っている。

企業トップが変ることで、危機に瀕していた企業が、一躍好業績企業に再生することは、ビジネス界ではよくある。このように、組織というものは、全体を引っ張って行くリーダーシップ次第で、良くも悪くもなるものである。もちろん、これは学校という組織も例外ではない。ましてや、学校は企業でいえば中小企業レベルの規模である。従業員は、先生や職員だけであり、生徒は顧客だからだ。そうなると、一層リーダーの人格が組織に与える影響は大きくなる。

しかし、現実の学校を見ると、校長がリーダーシップを発揮していないところがほとんどである。リーダーシップが、主としてそのパフォーマンスを決める組織で、リーダーシップが発揮されたなかったらどうなるか。結果は明白だ。今「教育問題」とされていることのほとんどは、制度やシステムの問題ではなく、実は「校長がリーダーシップを発揮しない・発揮できない」ことからもたらされた結果といってよい。

これはひとえに、年功型の人材登用の弊害である。今の流れでは、先生をしていたヒトが、教頭や副校長となり、校長となる年功制が主流である。確かに、それなりに教師としての実績を持ったヒトが校長に登用されているであろうことは認める。しかし、「経験を積んだいい先生」であっても、そのヒトが組織のリーダーとして適しているということにはならない。先生としてのコンピタンスと、リーダーとしてのコンピタンスは、全く異なるものだからだ。

この現象は学校に限らず、日本の組織ではいろいろなところで見られるものである。スポーツ界では、「名選手、必ずしも名監督ならず」という例がゴロゴロしている。いや、名選手が名監督になれた例のほうが少ないといった方がいいだろう。それ以上に、年功制をひいていたかつての日本企業では、マネジメント力やリーダーシップがなくても、在職年数で管理職に登用され、そのまま役員・社長にまでなってしまった例も多い。

こう見ていけば、教育改革は実にカンタンなことがわかる。校長への権限委譲をすすめ、裁量の自由度を増すとともに、その責任も明確化する。そのかわり、校長は年功制ではなく、組織のリーダーとしての適性を基準に登用する。あとは、結果責任だけである。ウマくマネジメントできなかった校長は責任を問って去り、運営に成功した校長の元へは、生徒も教師も集まる。このように、制度そのものではなく、運用こそが、競争原理の母なのだ。



(06/11/10)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる