プロとアマ






音楽でも文芸でもスポーツでも、日本においては、長らく「プロかアマか」という二元論が基本になってきた。その世界で一流であれば、それで金がとれるし、専業で食っていける、という認識である。それだけでなく、斯界での第一人者なら、一般の生活者よりもずっと「稼ぎがいい」ということも是認されてきた。それゆえ、「プロでなくては、一流ではない」という見方さえ定着している分野もある。

確かに、スポーツや芸能など、マス・エンターテイメント系の領域においては、「プロ=一流」論は成り立っている。それは、この領域での評価は、常に「大衆の人気」という指標に基づくためだ。Wikipediaが成り立つ理由と同じで、統計的に見て多数の目が反映されれば、結果的には世の中の多くのヒトが思っている結果と、「当らずとも遠からじ」という誤差の範囲に収まるからだ。

しかし、だからといって、あらゆる分野でこの法則が成り立つわけではない。たとえば、そもそもその世界で「当代随一」であっても、その世界からの収入だけで食っていけない領域も多い。詩人や俳人などは、いい例であろう。一流の詩人や俳人でも、実際の収入からみると、職業としてはエッセイストだったり、大学教授だったりすることが多い。では、そういう領域におけるプロとは誰なのか。

この問題は、その分野での才能の高さと、その分野での収入の多さを混同し、一つの軸にプロットしてしまったことに基づいている。もともと、この両者は独立である。その領域における才能が極めて高くても、それを生活の糧としていないヒトもいる。その逆で、必ずしも才能があるワケではないが、そこからの収入で生活ができてしまうヒトもいる。結局は、独立な軸として、4象現に分けて考える必要がある。

こういう混同が起きた裏には、かつてこういう領域では、「技術の習得」と「設備投資」という二つのハードルが存在したからだ。クラシック音楽などは、いい例である。自分の中に、いかに表現したい「音」があったとしても、かつては楽器が奏けなくてはそれを表現できなかった。そして、楽器を自由自在に扱えるには、それなりの修練が必要だし、また楽器を購入し、レッスンを受けるだけの資金も必要だった。

この結果、本末転倒が起る。自分の中に表現したい「音」がなくても、楽器を購入しレッスンを受けることで、それなりに楽器をウマく扱えてしまう「職人」が増えてきてしまったのだ。この典型的な例が、日本の音楽界の現状であろう。こうなると、プロといっても音楽を聞かせて金をとるのではなく、レッスンプロというか、同じようなヒトに楽器の操作法を教えるコトで生活費を稼ぐことになる。

だが、情報技術の進展による技術革新により、この構図は変りつつある。IT技術の利用は、基本的に職人的技術の「敷居を下げる」ほうに向う。たとえば、写真が典型的だ。カメラが、AEからAFになり、さらに銀塩からデジタル化することにより、カメラを扱う技術は大幅に敷居が下がった。いい写真をとるためには、かつてのような「カメラを操作する技術」は求められず、純粋に「いい作画をする絵心」さえあればよくなった。

実は、今起りつつある変化の本質はここにある。今まで「プロ」と呼ばれてきた人々の中には、収入は得ていても才能のない「職人プロ」と、本当に才能を持っている「天才プロ」とがある。情報化した社会では、この両者が明確に分かれるのだ。こう見て行くと、昨今いわれる「新聞離れ」も、その原因が良くわかる。新聞社の名刺を持っていることと、そのヒトがジャーナリストとしての才能を持っていることはイコールではない。

ジャーナリストたるためには、なにより「問題の本質を見ぬく洞察力」と「ヒトを納得させる説得力」が、人並外れていることが求められる。この能力は、記者の肩書を持っていることとは、何の関係もない。インターネットのように、全ての情報が並列的にアクセス可能な環境では、その書き手が「問題の本質を見ぬく洞察力」と「ヒトを納得させる説得力」を持っているかどうかは、一目瞭然である。

インターネットが普及したからといって、一般の人が皆情報発信者になることはない。一方的なアップロードこそできるかもしれないが、発信者というのは、受け手がいてはじめてなれるものである。そして、マス化したインターネットでは、それはとりもなおさず「大衆から支持される」ことと同値である。そういう意味では、こういう時代になってはじめて、その領域における才能の有無こそが、プロとアマを分ける軸としてクローズアップされるということができるのだ。



(06/11/24)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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