景気の良さ






このところ、経済指標の示す景気動向と、一般大衆の「羽振り」とのズレを指摘する記事や番組を良く目にする。そもそも「景気がいい」とは、経済が淀みなく順調に回っていることである。誰もがおいしい「分け前」に預かれる、ということではない。ちゃんと経済のことがわかっているヒトなら、そのくらいわかっていて当り前だが、「庶民感覚」では、全くもって混同されてしまっている、というところだろうか。

まあ、かつての高度成長期には、何も付加価値を生み出さなくても、それなり「分け前」に預かれたのも事実である。その時代においては、景気のいい時期には、それなりに「分け前」を頂けた。しかしそれは、常に右肩上がりがつづく高度成長期であり、利益をお手盛りで社員に分配しても誰も異を唱えなかった「日本的経営」が行われていたからこそ許された、特別な事態だったのだ。

祭で、実際には神輿を担がなくても、周りで「ソイヤソイヤ」言っているだけで、酒を飲ませてもらえたようなものだ。人並みが途切れないほど祭がにぎわっていれば、そのあたりにたむろしているだけで、祭に「参加」した気になれる。実態としては「見物人」に他ならず、祭そのものには何も貢献していないにも関わらずだ。高度成長期の「配分」とは、まさにこういう「振舞酒」のようなものだったのだ。

こう考えてみれば、昨今の経済状態に対する「分け前がこないから、景気の良さが実感できない」という声は、論旨が全く逆であることがわかる。日本企業の従業員の多くは、付加価値を生み出さず、作業をこなしているだけであった。これが、日本企業の「モノ作り」の本質である。やっているのは、単に生産過程のエクゼキューションに過ぎない。文字通り「作るだけ」の、低付加価値作業だった。

しかし、労働集約型の生産性の良さと、1$=360円というダンピングレートにより、低付加価値作業における価格競争力には、圧倒的な強みがあった。これが、かつての日本企業の強みであり、日本経済の強みだった。しかし80年代以降、これら強みは失われ、こういうモデルにおいては、アジア諸国のほうが優位性を持つようになった。それとともに、日本企業の中からも、グローバル化を図り、付加価値の高い「モノ創り」を目指すところが生まれてきた。

だが、「負け組」というか、未だに日本の製造業の多くは、高度成長期型の日本的経営モデルから脱皮できていない。低付加価値作業しか出来ない従業員に対し、法外なほど高い給料を払っていたから、日本経済がおかしくなったのだ。90年代の「失われた10年」の本質は、ここにある。その10年をかけて、仕事の中身に対して適正な水準の対価を支払うようになったからこそ、経済が復活し、景気が良くなった。この事実を見逃してはならない。

そもそも、中国の労働者と全く同じ仕事をしているのに、日本の労働者に対しては、中国の労働者以上の給料を貰おうとするほうがおかしい。グローバルに、同じ製品を作っている以上、仕事の対価は、仕事の中身とマッチングしたものでなくてはならない。同じ仕事をするなら、給料は同じ。これは大原則だ。これが平準化しないから、空洞化が起きる。給料が中国と同じなら、ことコスト面については、中国で生産する意味はなくなる。

なんで、同じ仕事をするのに、日本の労働者により多く給料を支払う必要があるのだ。その矛盾に気付かなければならない。自分の分け前は、やっている作業が生み出す付加価値に対して、不当なほど多いのだ。甘え・無責任の権化たる日本の労働組合が求めているのは、同じ仕事をしているのに、自分たちの方に多くよこせという、勝手な既得権擁護にすぎない。これは視点を変えれば、中国の労働者に対する、不当な差別になってしまう。

もし、もっと分け前がほしいなら、それを要求する前に、仕事の中身、仕事の質を変える必要がある。より付加価値の高い仕事をしているのなら、収益に対する貢献を考えれば、その人に対し、より付加価値の低い仕事しかしていない人より、より多くの対価を払って当然である。高付加価値作業をこなす能力を持ち、収益に貢献した人も、低付加価値作業しか行えず、収益に貢献できない人も、同じ配分にあずかるということは矛盾である。

こうなると、問題は、日本における「賃金の悪平等性」にあることがわかる。機械でもできる仕事、コンピュータでも処理できる仕事しかしていないのに、その機械やコンピュータの減価償却やランニングコスト以上の金を貰おうとしても、そんな要求にはアカウンタビリティーがない。しかし、日本の労働組合や、ほとんどの労働者が求めているのは、こういう「甘え・無責任」な要求なのだ。

成長のためには人海戦術しか対応策がない、労働集約型産業に特化してきた高度成長期には、圧倒的な人手不足が生じ、労働市場は完全な売り手市場となっていたのは事実である。このため、生み出す価値と比較し、プレミアムつきの対価を払わなくては人手を確保できなかった。生み出す付加価値以上の「悪平等型」賃金を支払っても雇用を確保していたのは、この時代の悪弊である。

市場原理が働き、需給のバランスがとれるようになれば、適正な対価で雇用するのは当然の流れである。まして今の日本経済は、労働集約型経営モデルで生き残れるような、開発途上国型のモノではない。「給料が安くて、景気の良さが実感できない」とグチをこぼす前に、自分がどれだけ付加価値を生み出しているのか、客観的に考えるべきだ。これもまた、「分相応」を見失い、自己中心的に高望みする日本の大衆の悪弊というべきだろう。



(06/12/08)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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