治安への甘え






このところ、「日本の治安が悪くなった」というのは、ほぼ定説化した感がある。その典型例としては、青少年による凶悪犯罪が持ち出されることが多い。実際の犯罪統計を見ると、実は青少年による殺人や強盗などの凶悪犯罪は、昭和20年代以後、件数ベースでは一貫して減少している。それだけでなく、少子高齢化の影響による青少年層の人数減を考慮し、発生率ベースで見ても、確実に減少傾向にある。

確かに、昭和20年代や30年代の日本は、事実上開発途上国であり、「食うに困った」貧困層が多数存在した。どういう時代、どういう国の例を見ても、こういう「失うモノがない」層は、確実に凶悪犯罪者の温床となることは間違いない。そういう意味では、20世紀後半の高度成長が、日本における凶悪犯罪の発生率を引き下げたということができる。高度成長の功罪にはいろいろな面があるが、こと凶悪犯罪の発生率低下に関しては、ポジティブに評価することができるだろう。

こういう事実をふまえて考えれば、治安の悪化は、実際に身近におこった危機がもたらしたものではなく、大衆レベルでのイメージや気分として捉えるべきだろう。90年代以降、何らかのマインドの変化がおこっていることは確かだ。だからこそ、治安が悪化したというムードが、広く共有されるようになったのだ。では、その変化をもたらしたモノは何か。それは、犯罪のエンタテイメント化と、安全の自己責任化に求めることができる。

犯罪のエンタテイメント化は、基本的には、世の中の価値基準が、「正しい・正しくない」から「楽しい・つまらない」へと変化したことにより引き起こされた。政治の劇場化や、ジャーナリズムの変質などと共通の要因を持つ事象である。安定成長の時代になり、世の中の変化が刺激にならなくなった分、大衆は「代わり刺激のネタ」を求める。その一つとして、「犯罪が求められた」ということである。

恐いもの見たさではないが、猟奇的でおぞましい事件ほど、ある種の生理的興味を呼び起こす。もともと犯罪報道には、そのタテマエはさておき、そういう好奇心に訴えるなにものかがある。それが、社会のエンタテイメント化により、表面に浮上してきた、ということである。これはある意味、犯罪が身近でなくなったからこそ、対岸の火事として興味本位で楽しめるようになったということもできるだろう。

あまりホメられた話ではないかもしれないが、この手の人間のサガは、古今東西を問わず共通しているので、とやかく言うモノでもない。しかし、問題なのは「安全の自己責任化」に対する反発のほうである。百歩譲って、本当に治安が悪化していても、基本的には自分で対抗策をとれば、それで済む問題である。銃刀法を改正して、「護身用の武器は所持してかまわない」とすれば、あとは本人の責任だ。

しかし、巷間で交わされる治安論が、そっちの結論に行くことは希である。多くの場合、その結論は「治安が悪化したから、何とかしてくれ」となる。それも、「誰に」という主語のない、「何とかしてくれ」だ。実は、ここにこそと治安悪化論の本質が隠されている。「甘え・無責任」な日本の大衆にとっては、責任は「お上」が取るモノであり、自己責任となることをなにより嫌悪する。

もっとも、その「お上」も、組織内で責任を曖昧にしてもみ消してしまうだけなのだが、とにかくババ抜きのジョーカーよろしく、自分の手元から「責任」の2文字が消えてくれれば、それで安心するのが日本の大衆なのだ。実は、日本社会全体としては、各個人の自己責任で安全が確保可能な局面が増えている。実際にも対応可能である。しかし、それが社会全体の自己責任化への「蟻の一穴」となる可能性を、大衆が生理的に感じているということなのだ。

いつも言うように、「甘え・無責任」に生きていたい、という選択も、その選択によりもたらされる「結果」さえ甘んじて受け入れるという、最低限の自己責任さえ果たせば、個人の自由である。しかし、無責任構造を、社会のデファクトスタンダードとする要求を受け入れる余裕は、もはや今の日本社会にはない。責任を丸投げしたつもりでも、実際にコトが起れば、責任は降りかかってくる。その時あせっても、もう遅いのだ。



(06/12/22)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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