21世紀の掟







21世紀も、これでまる7年。そろそろ、21世紀全体を見通すことが可能となる時期になってきた。その大きなカギとなるのが、「脱産業社会」という視点である。産業革命(モノによってはルネッサンスや大航海時代)に始まった「産業社会」というスキームは、20世紀にその頂点に達するとともに陳腐化し、過去のものとなる。我々が今体験しているのは、このパラダイムシフトのプロセスである。

人間社会というのは、コンピュータのリセットのように、ある日をもって全てをご破算にし、新たなコトをはじめるというワケにはいかない。昨日も今日も、同じ生身の人間が生きている。仕事や社会制度といった、意識上でコントロールできるものなら、たとえばアメリカに旅行すればアメリカの制度に慣れるように、すぐに対応することもできる。しかし、マインドのように意識下にあるものについては、ある日をもって変化するということは不可能だからだ。

たとえば日本社会でいうなら、明治維新で政治制度や権力構造は変わったものの、人々の暮らしから「江戸時代的なもの」が消えるには、大正時代まで半世紀かかっている。東京の町並みが、江戸時代のそれから根本的に変わったのは、関東大震災以降なのだ。同様に、1945年をもって「戦後」と言われるものの、「戦前」的な生活要素は、高度成長の成果が全国に行き渡る1970年代まで、脈々と続いていた。

こういう視点に立てば、産業社会的なものが完全に転換するには、少なくとも21世紀前半の50年ぐらいかかるものと考えられる。現在は、産業社会的なモノと、ポスト産業社会的なモノとが、混在している時代である。となると、将来を予測するためには、今まで我々が送ってきた社会や生活の中で、何が人類にとって普遍的なものであり、何が産業社会に固有のものだったかを判別することで、これからの世の中を、かなりくっきりと見切ることができることになる。

これが難しいのは、我々自身がどっぷりと「産業社会の常識」の中に浸ってしまっているがゆえに、日常の延長上の視点だけでは、「普遍的な要素」と「産業社会固有の要素」を識別できない点である。ここで有効になるのが、歴史に学ぶ視点だ。歴史といっても、産業社会の時代の「歴史」は、産業社会を最終到達点と見て、美化・絶対化し、それまでの人類のあゆみを、その前段階として捉える傾向が強い。

しかし、歴史上の客観的な事実は、厳然として残っている。神話や口伝文学の中からも、各民族の歩んできた道を知るためのカギが得られるように、いかに偏向した史観に基づく叙述であっても、客観的な要素を取り出すことで、そこから読み取れることは多い。すなわち未来を知るカギは、近代、中世、古代といった各時代を相対化し、対等な価値を持つ社会構造として捉えることから得られる。

ここから得られるのは、端的にいえば、人類の時代的変化とは「対立構造の変化」だ、ということである。人間集団は、常に顕在的な差異を埋める方向に進むが、それが均一化されると、それまで潜在的だった別の対立軸が浮上し、今度はそれを中心として社会変化のモチベーションが生まれてくる。その対立構造に沿ったカタチで、社会が構築され、人間集団が組織される。

たとえば古代においては、それは宗教的なモノを中心に経済・軍事が一体化した集団の間の対立であった。それは、世界宗教の発生とともに均一化した。中世においては、武士や騎士のように、軍事力を中心に宗教・経済が一体化した集団の間の対立であった。それは、軍事力が個人単位のものから、集団単位のものへと進化することで均一化した。そして、経済力を中心に、国民国家間の対立が軸になったのが近代といえる。

このように、未来を解くカギは、国民国家という存在が、歴史的には相対的な存在でしかない、と見れるかどうかにある。それができれば、未来の構造は、現在の国民国家の内部にある対立構造が軸になることが理解できる。具体的には、民族や階層といった「文化対立」の構造である。20世紀までの対立軸としての「国家」が崩れ、「文化対立」がそれに変わるあらたなクラスタの基準となる。その変化のプロセスこそが、21世紀の歴史となるだろう。


(06/12/29)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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