秀才さん、イチ抜けて







明治以降、近代日本のあゆみを考えたとき、極めて特徴的なのは、それが常に「秀才の社会」という価値観を持っていた点である。明治維新に功労のあった元勲達はさておき、明治時代以降に教育を受け、政官財(昭和戦前においては軍も)の要所を占めてきた人たちは、「勉強ができて、偏差値が高い」秀才が中心になってきた。人間性や人徳よりも、知識を持つ人間が重用されてきた。

近代日本の最大の課題が、「先進国へのキャッチアップ」であったとするならば、その選択も理あるものといえるだろう。そのためには、社会システムでも技術でも、先進国の持つノウハウやコンピタンスをいち早く学び取り、それを忠実に国内でコピーすることが必要とされた。これを実行するには、知識をよく吸収し、勉強が得意な人間を大量に用意し、先進国から「学ばせる」ことがもっとも効率的だからだ。

確かに、秀才主義は効を奏して、それなりの成長と、国際社会でのアイデンティティーを得ることができた。これは、良きにつけ悪しきにつけ、歴史の証明するところである。しかしそれは、ある意味での緊急対応であったことを忘れてはならない。パンクしても、ランフラットタイヤならそれなりに走行できる。しかし、それは元来、近くのサービスステーションにたどり着くまでの緊急対応としての走行である。

これと同じコトで、秀才主義も、先進国へのキャッチアップができてしまえば、その緊急対応としての使命もついえてしまうはずである。1970年代以降、どんなに引っ張っても1980年代以降の日本は、どうみても先進国の仲間入りを果たした。この時点で、秀才は人材として必要ない存在になってしまっていたことになる。しかし、100年にわたって染みついてきた「秀才主義」は、一朝一夕に捨てられるモノではなかった。

秀才は、コピーは極めて上手である。モデルがあればそれを学び取り、寸分違わず再現できる。しかし、それしかできない。モデルのないものは、創り出せないのだ。従って、秀才は失点を防ぐのが極めてウマい。セキュリティーソフトは、既知のコンピュータウィルスなら間違いなく検出し、削除できるのと同じだ。しかし、これでは負けないだけである。良くて引き分け。だが、決して勝つことはできない。

それに対し天才は、得点を取れる存在である。「負けない」ことと「勝つ」ことには雲泥の差がある。勝つためには、秀才だけではどうしようもない。天才が得点してはじめて、「勝つ」可能性が生まれる。もちろん、その得点を守りきるためには、秀才の役割もないわけではない。しかし、それはあくまでも「得点」があっての話である。秀才だけのチームでは打つ手がない。

日本人に、天才が少ないワケではない。どんな国民でも、どんな民族でも、天才というのは元々希少で、存在確率が低い。日本人にも、諸外国と同じぐらいの確率で、天才は存在している。問題なのは、その「天才」を、社会がどう処遇するかというところにある。天才は明らかに他人と違うので、その存在はすぐわかる。だが、定量的には評価できない。定量的に把握できないものを、重視できるかどうか。問題はそこにある。

しかし実はここで、皮肉なコトだが、日本の大衆の悪しき特性である「甘え・無責任」が大いに役に立つ。世の中でいえば、非天才のほうが圧倒的に数が多く、まさに大衆を構成している。そして、大衆は責任を取りたくないのだ。ならば、少数の天才に責任を押し付けて、何でもかんでも丸投げしてしまえばいいだけのことだ。そう、みんなで「やってるフリ」をする社会はもうオシマイ。これからは、みんなで「やらない」世の中にすればいいだけのことだ。


(07/01/12)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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