ボランティア特区






夕張市が財政破綻し、リストラを強いられている。そもそも破綻に至る前に、補助金漬けの放漫経営を改め、なにがしかのリストラクチャリングを行っていれば、こういう結果にならなかっただろう。「人が死ななくては、横断歩道に信号がつかない」とは、日本の地方行政の本質を言い当てた言葉だが、まさに「実際に破綻しなくては、手をつけられない」ことを地でいったカタチである。

まあ、結果として、同様の危機に瀕している自治体が、それなりに意識改革に踏み切れれば、夕張市も貴重な「生贄」だったといえるかもしれない。さて、夕張市はリストラの一環として、大幅な支出の削減と同時に、大幅な人員削減も行うことになった。大きな政府指向が破綻を生んだのだから、小さな政府にして出直しを図るのは当然である。

ところが、人員減に伴い、自治体の提供するサービスが低下するコトを懸念する声がある。そもそも地方自治体は、どこでも民間に比べれば人員が過剰で、一人当たりの生産性が極めて低い。工程管理を民間並に行い、民間と同じレベルの生産性(日本のホワイトカラーの生産性は、世界的に見ればかなり低く、まだまだ生産性を改善できる余地が多いのだが)を実現すれば、2〜3割の人員削減は苦でもないはずだ。

そういう正論も成り立つのだが、それ以前にこの論法の問題は、何でもかんでも「公共サービスは、お上だより」という、官任せの発想をベースとしているところにある。公は官ならず。にもかかわらず、公の責任をすべて官に押し付けるというのは、まさに「甘え・無責任」体質のなせるワザである。住民であれば、サービスを受ける権利を主張するだけでなく、応分の公的責任を負担する義務を負ってアタりまえである。

日本でも地方に行けば、消防団など、自主的に公的役割を果たす活動がある。しかしアメリカでは、そもそも公的組織がない所で生活を始めた開拓時代の伝統もあり、多くの公共サービスが、受益者でもある住民の自主的なボランティア活動により、今でも支えられている。このように、結果としてのサービスの提供ということならば、なにも地方公共団体が主体とならなくても、いくらでも提供可能なのだ。

たとえばゴミの収集でも、収集車だけ用意しておき、処理場への運搬は、住民が自主的に交代で行えば、専従の職員をおかなくても、運営可能である。可能というだけでなく、おいておきさえすれば、誰だか知らない清掃職員が「勝手に」回収してくれるシステムとは違い、自分達が自己責任で「捨てに行かなくてはならない」分、ゴミに対する意識はいやが上にも高まる。リサイクルやゴミの削減、環境問題への意識も、高くならざるを得ない。

また、純然たるボランティアのパワーを生かす方法もある。イギリスでは、赤字で廃止せざるを得ないローカル線を、鉄道マニアがボランティアとして「保存鉄道」として運営しているところも多い。このような路線では、単に保存して観光用というだけでなく、地元の足としても充分に機能しているところもある。ビジネスとしてはコスト負担に耐えられなくとも、ボランティアを生かせばコスト問題を解決できるのだ。

もっともこれは、喜んでボランティアを行うヒトがいる、マニアがいるような領域しかなりたたないが、そういう領域は公的サービスには多い。警察マニアは、ボランティア警官になれる。バスマニアは、普通免許があればバスを運転できる。重機マニアを集めれば、タダで道路工事ができる。規制緩和等を行い、その地域においては資格等を不問にする「ボランティア特区」を作れば、いくらでも人は集まる。

そう、問題は、「面倒なことは全部お上に押し付けて、知らん振りをしたい住民」と、「すべてを既得権として守り、他者の参入を認めたくない公務員」という、双子の「甘え・無責任」の構造にある。その「甘え・無責任」のデュエットが成り立たなくなってしまった「破綻都市」こそ、ボランティア特区を導入するにふさわしい場所だ。しかし考えてみれば、これは冒険でもなんでもない。百年前の、開拓地だった頃の「理」に戻るだけのコトなのだから。



(07/01/19)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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