ヴァーチャル・ライフ







昨今、階層化の議論が喧しい。まあ、「一億層中流」自体が幻想で、高度成長期でも、バブル期でも、キチンと調査すれば階層差は歴然とあったのだから、何をイマさら、という感もある。しかし、かつての団塊世代の上昇志向とはことなり、所得も意欲も低い「降りた」人々が マスを占めるようになった、という変化は確かにある。そして、所得も意欲も高いヒトと、違うライフスタイルを指向しているコトも事実だ。

そういう中で、所得も意欲も低い「降りた」人々の特徴となっているのが、「まったりとした」生活観である。たとえていえば、四六時中コタツでゴロ寝をしており、そこから手を伸ばして届く範囲で喰いたいものを喰い、テレビやパソコンでだらだらと暇つぶしに明け暮れる。実際、インターネット接触時間が一番長いのは、この層である。それも、目的が暇つぶしなので、無料で受身で楽しめるコンテンツに、需要が集中する。

この結果、面白い傾向が生まれている。所得も意欲も高い人たちは、一日が24時間なのが惜しいかのように、レジャーに外出したり、趣味に凝ったり、他人とコミュニケーションを図ったりと、積極的に時間と資金を消費する。もちろん、仕事にも意欲的である。その一方で、所得も意欲も低い人たちは、とにかく金をかけずに、余りある時間をつぶすためだけに生きる。もちろん、仕事でもだらだらとしている。もし、昨今「新しい差異」が生じているとするなら、それはこの一点だろう。

そういうワケで、二流の大衆は「ヴァーチャル」な世界が好きなのだ。というか、「ヴァーチャル」な世界の主要なユーザは、まったりとした暇つぶしを求める、所得も意欲も低い人々が中心となった。この結果、目に見えないところで、世の中が二つに分かれてしまった。一つは、自立・自己責任で、一流の徳を持つ人格者が住む「ホンモノ」の世界である。そしてもう一つは、甘え・無責任で、器の小さな凡才の住む「フェイク」の世界である。

しかしこのような現象には、なぜかデジャブ感がある。それは、今でいうCGMというか、参加型のインタラクティブメディアが生まれて以来、パソコン通信でも、BBSでも、SNSでも、人間の集まりができるところには、常に見られた現象だ。こういうネットコミュニティーでは、「お山の大将」を中心に、排他的に妙に小さく群れたがる傾向が強い。まあ、ネットに限らず、かつての過激派の「内ゲバ」なんかも、同じ構造なのだろうが。

それでも、そこのメンバーとして一流の人間、ホンモノの人間がいる場合は問題ない。これは、なにも実際のプレイヤーである必要性はない。たとえば、美術に関するフォーラムがあったとして、そこを主催する人間は、アーティストでなければいけないワケではない。たとえば美術史の研究者として一流であれば、それはそれでホンモノといえるだろう。もちろん、市井の趣味人でも、一流の見識があればいい。

問題は、知ったかぶりだけの二流野郎が、いかにも見てきたような顔をしてのさばっている場合だ。往々にして、このような下衆なヤツほど、エラそうにイバって権威付けしたりする。こういう輩ほど、それを真に受けたり、あるいはその権威にすがろうとしてヨイショする、これまた二流の取り巻きがチヤホヤしたりするから始末にワルい。真っ当な人間から見れば、「なんじゃ、こりゃ」という集団が出来上がってしまう。

だが、こういう連中は妙に求心力がある。他の集団を攻撃し、反発することでしか、自分のアイデンティティーを感じられないのか、求心力自体が自己目的化しているから、異様に団結力が強くなる。まあカルト教団と同じで、他の人間や集団とインタラクションを持たないで孤立するのら、「勝手にやってくれ」で済むのだが、他人との違いを確認することが、自己実現なのだから困ってしまう。

まあ、それでもそういう連中同士でやりあっている分には、「勝手にしやがれ」である。蟻地獄の底みたいな、エントロピー極大なポジションでいくらやりあったところで、外側にまで火の粉が飛んでくることはない。大事なのは、数の議論にしないことだ。数的には所得も意欲も低い人たちのほうが、圧倒的に多数である。彼らの意見を聞いてしまうと、足を引っ張られることになる。お互い、勝手にやる。これが、これからの日本を救う、階層化のポジティブな結論なのだ。



(07/01/26)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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