納豆騒動






関西テレビの番組「あるある大辞典」で、「納豆がダイエットに効く」という話題が取り上げられ、スーパーの店頭から納豆が売り切れてしまった。それだけでなく、それから数日間は、納豆が大幅値引きの目玉商品になることなく、正価販売が続いた。その後、週刊誌より、内容が「事実無根」だと指摘された。それが、番組の打ち切りや、関係者の譴責処分を呼ぶ「事件」となってしまった。

そもそも、ある情報をどう捉えるかは、基本的に受け手の問題であり、送り手の責任ではない。インターネットの掲示板やBlogの情報が代表的だが、送り手には、「言いたいから言う」以上のモチベーションは求められない。主義主張をアピールしたり、それに対して誰かから同意を求めたい願望があったとしても、それが受け手に伝わる保障が何もないのが「情報化社会」のオキテである。

同様に、そこにある一次情報をどう捉えるかは、受け手の勝手であり、極めて主観的なことがらである。それをネタとしてとらえるのもいいし、マジで受け取るのもいい。どちらでもいいし、どちらにするかは、受け手の気分次第だ。もっとも、マジで受け取るヒトがいればいるほど、ネタとしてはおもしろくなるという傾向があり、みんなが明らかにネタとしか捉えないものはあまりウケないという傾向も顕著だが。

それがニュースであろうと、ドキュメントであろうと、送り手にとっての「真実」と、受け手にとっての「真実」が一致する保障などどこにもないのが、21世紀の世の中なのだ。かつて、20世紀までの産業社会の時代には、「定量的」に保障された、社会的な「正義」や「真実」があったかもしれない。しかし、それは右肩上がりの成長があってこそ。みんなが同じ分け前にありつける可能性がない社会では、「真実」や「正義」は、極めて主観的なものにならなくてはやっていけない。

ちょうど、マジックショーや霊的世界みたいなものを考えてもらえればいいだろう。それが存在するかどうか、タネやシカケがあるかどうかなど、問うこと自体、センスがない。それでは、そもそも面白くないし、楽しめないではないか。そのストーリーや華麗なワザを、面白く楽しむことが重要なのだ。刹那的に面白ければ、そのウラのからくりがどうなっていようと、関係ない。安定成長の時代、希望を持って生きるには、この世は全てショーにならなくてはやっていけない。

というメカニズムがある以上、テレビ番組だろうと、新聞だろうと、はたまたBlogの日記だろうと、受け入れるかどうかは、受け手が決める問題だ。第三者的に正しいか、正しくないかなんて関係ない。ましてや、正しいか間違っているかなんてことは論外である。大事なのは、理由付けはどうあれ「受け入れられるか、られないか」あるいは「面白がられるか、られないか」、という一点でしかない。

面白ければ受け入れるし、つまらなければ受け入れない。これは受け手個々人にとって、極めて主観的な問題で、客観的な判断とは無縁である。どんなに正しくても、つまらなければ見向きもしない。ウソだろうとニセモノだろうと、おもしろければ喝采を浴びる。結果、多くの人が面白がれば、そこに情報の市場原理が成り立ち、それがみんなにとって「意味のある」情報となる。これが、「ジャーナリズム」が時代遅れとなってしまった理由でもある。

多くの人々にとっては、実際に納豆がダイエットに効くか効かないかより、目の前で次から次へと納豆が売り切れている「リアルタイムのゲーム」に、自分も参加できるコトのほうが面白い。ワールドカップのサッカーブームと同じコト。サッカーを知らないヒトも、面白がって便乗し出したから、ブームになった。騒ぎに自分も便乗して楽しみたい。ブームとは、「バスに乗り遅れるな」という、騒乱のカタストロフへの願望こそが本質だ。

そこでは、中身は一切関係ない。そういう意味では、今回の「騒ぎ」も、「納豆が売れに売れて、店頭から消えてしまった」というだけで大成功である。「ホントだ、ウソだ」とか、「捏造だ」とか、目くじらを立てる必要もない。当然、責任も発生しない。そもそも、テレビというのは、そういうエンターテイメントなのだ。それがわからず、前世紀的な責任問題を問うこと自体が、すでに時代の流れから乖離していることに気付かなくてはならない。



(07/02/02)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる