金利の自由






政局に流されて、最近ではすっかり話題から遠ざかってしまった感もあるが、ちょっと前には、貸金業の金利の上限規制の話題が盛んに議論されていた。その当時から、議論がxちょっとおかしいのではないか思われたのは、金利を規制するということは、即、市場原理を否定するコトにつながるという視点が欠落していた点である。

金利というのは、もっとも市場に連動している指標である。それは、純粋に需給で決まる。お金に対する需要に連動し、、金利は上がったり下がったりする。まさに、資金に関して自由競争が実現しているからこそ、金利がその市場の状況を反映している。金利規制は、資本主義の根幹にかかわる。貸金業法による、金利の上限規制は、社会主義、共産主義的政策である。

貸し手が多い状況、リスクが低い状況では、より低金利の貸し手が現れ、金利は下がる。借り手が多い状況、リスクが高い状況では、より高い金利を取らなくてはヘッジをかけられず、金利は上がる。市場の「見えざる手」による調整機能が、最も効果的にあらわれるのが、金利の世界である。そこに権力が横槍をいれるのは、自由主義の否定であり、計画経済と同じことだ。

最も、日本の「官」のシステムは、40年体制と呼ばれるように、極めて社会主義的な統制経済を指向し続けてきた。その制度疲労も限界まで来ているが、まだまだ日本式の「大きな政府」が「社会主義最後の楽園」であることは間違いない。そういう意味では、官僚が金利規制をしたがるのはわからないでもない。しかし、自由主義、資本主義を標榜する政党や政治家が、その先棒を担ぐのはいかがなものか。

国の基幹となる経済制度として資本主義を選択する以上、あらゆる市場で、常に自由競争が成り立つようにしておかなくてはならない。その中でも、金融市場の自由競争の指標ともいえる金利こそ、最も市場原理を尊重すべきモノである。このオキテの重要性がわからないようでは、市場原理、競争原理を語ることはできない。所詮は、上っ面だけのエセ古典派にしかならない。

ハイリスクでも貸すヒトがいる。その一方で、ハイリターンでも借りるヒトがいる。このマッチングが取れるかどうかで、その金利が妥当かどうかが結果として決まる。返せないリスクが高くても、金が必要であり、すぐにでも借金したいという人は常にいる。このヒトに金を貸すためには、そのリスクにしおうリターンが得られなくては、誰も貸さなくなる。

金利を自由競争にしておけば、おのずとバランスが取れる点で均衡するのが、市場原理のいいところである。無謀な金利を取ろうと思っても、より低い金利で貸そうというヒトが現れれば、絵に描いた餅だ。より低い金利で借りようとしても、誰も貸してくれなければ、その金利は、そのヒトの信用レベルとつりあっていないということだ。

こと、金利の問題は、市場原理がすべてを解決する。もし、借金漬けになるヒトがいるコトが問題なら、その原因は、金利の高さではなく、借り手のマインドや良識にある。「給食代を踏み倒す」ではないが、借りた金は返さなくていい、と言わんばかりのヒトがいることのほうが問題である。その責任を、金利そのものに押し付けても、何の解決にもならないのは言うまでもない。


(07/02/09)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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