思いこみの世代






団塊世代の恐ろしい点の一つとして、その思い込みの強さがある。これも、自分があれこれと想いをめぐらしているうちに、バーチャルな想像の世界と、現実の実態とが区別つかなくなり、願望や空想の内容があたかも実体験であるかのように信じ込んでしまうことから引き起こされる。この際たるモノの例としては、団塊世代が自称する「全共闘世代」というレッテルがある。

全共闘というからには、少なくともその前提として、大学生であり新左翼の活動家でなくてはならない。新左翼でも、全共闘に加わらなかったセクトもあるから、新左翼>全共闘である。ここで、団塊世代が大学進学年令になった昭和40年代初頭の大学進学率を見ると、昭和40年が12.8%、以下41年11.8%、42年12.9%、43年13.8%と、その水準は、たかだか1割強。まだ、「大卒」がエリートの時代だったのだ。

誤解してもらっては困るのが、当時の大学生のすべてが、新左翼やそのシンパ(心情的支持者)だったわけではないコトだ。左翼を自称する中でも、新左翼とは対立する日共系の「民青」もいたし、体育会系のような右派の学生もいた。そしてなにより多くの学生は、ノンポリと呼ばれた、政治的関心が薄い「無党派層」だった。これを総合すると、全共闘の活動家や支持者は、団塊世代の中でも2〜3%、どんなに多めにシンパを加えても、5%を超えることはありえない。

このような、いわば「特異点」とでも言うような存在をもって、自らの世代を代表させてしまうのだから、その思い込みたるや半端ではない。団塊世代全体では、高卒ブルーカラー層が圧倒的多数なのだが、ある種、大卒エリートに憧れがあった世代だからこそ、自分達の世代での大学生活の象徴としての「全共闘」に、世代の代表として自己を投影し、自己同化を図ってしまう。まさに、「鷺を烏と言い黒める」の世界である。

さて、親が親なら、子も子である。この「思い込みの強さ」は、見事なまでにミームとして「団塊Jr.世代」に引き継がれている。「団塊jr.世代」は、物心ついたときからゲームにハマってきた「純粋ゲーマー世代」でもあり、マニアックなゲームのユーザは、ほぼこの世代に限られている。これもまた、環境のみならず、ハマるとバーチャルとリアルの区別がつかなくなるという、世代的特徴にも裏づけされている。

彼ら、彼女らの面白いところは、「バーチャルでは好きでも、リアルでは嫌い」という傾向がはっきりしている点だ。この世代では、自らスポーツ競技に参加したり、バンドをやったり、というように、スポーツや音楽をプレイするヒトは少数派だ。大多数は、観客・消費者として参加することを好み、スポーツや音楽に打ち込む人たちは、「オタク」として切り捨てる。

しかし、スポーツや音楽に全く関心がないワケではない。スポーツ系ゲームや音楽系ゲームの流行からもわかるように、バーチャルな世界でなら、興味もあるし、やってもいいと思っているヒトもけっこういる。要は、リアルな世界では、汗をかいて努力する必要がある上に、その結果が必ずしも報われるとは限らない。確かに成功すれば得られるものは大きいのだが、極めて「ハイリスク・ハイリターン」な構造である。

彼ら・彼女らが、リアルな世界でスポーツや音楽をやろうしないのは、そのリスクを取りたくないからである。バーチャルな世界なら、「なんちゃって」でもやった気になれるし、そこでウマく行こうが失敗しようが、自分には何のリスクもない。失敗しても、リセットすればいいだけである。おまけに、その世代的特徴から、バーチャルな「なんちゃって」でも、充分にやった気になれる。

この世代に、生涯フリーターが多いのも、単にバブル崩壊後の就職状況だけが理由ではなく、リアルを見つめるのが恐くてバーチャルな世界に安住するという、親譲りの「思い込み」の強さが影響していると見るべきだ。そう考えると、ニートや引きこもりもまたこの世代に多い理由が明確になる。「三つ子の魂、百まで」ではないが、この特徴は死ぬまで続く。しかし、それが世代的特徴だとわかれば、恐るるに足らず。この人たちには、一生純粋消費者でいてもらえば、それでいいのだ。


(07/02/16)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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