内部統制






昨今、法規制の改正により、企業経営における「内部統制」の問題が、経営上の重要な課題として取り上げられるようになった。数年前からよく耳にするようになった、コンプライアンスやガバナンスの問題もそうだが、こと日本においては、こういう「身を正す」行為は、なにか企業活動を根本的に改める必要があるモノとして捉えられがちである。しかし、それでは本末転倒だ。

そもそも、仕事はきちんとするのが当たり前である。公明正大、正々堂々とやるのが仕事であり、うしろめたいところが一つもないのが、本来の企業活動である。内部統制のための諸制度にしても、マトモな仕事をちゃんとしているのなら、別に今までと180゜違うことをしなくてはならない、というワケではない。通常、キチンとやっていることを、ディスクローズするかどうか、問題はこの一点でしかない。

もちろん、形式知化し公開するためには、「記録」をする手間が多少は発生するかもしれない。しかしこれとで、あらたにデータを作るハナシではない。真っ当な仕事をするヒトなら、「個人のメモ」レベルの記録を持っているのが当たり前だ。要は、それを公開するための作業のみが新たに発生するだけである。なんら特別な話ではないし、慌てふためくほど大変な話ではないハズだ。

それがこうまで「社会的問題」となる裏には、日本の企業には、別の問題が潜んでいると考えざるを得ない。つまり、「真っ当に仕事をしていない」人間が多いからこそ、内部統制が大問題となるのだ。40年体制下、官庁の保護と指導の元に成長した日本の企業は、その影響から、極めて社会主義的・共産主義的な共同体的体質を強く持ってきた。今問題になっているのは、このような日本的企業体質をどう改革するか、という問題である。

そうなってくると、問題は明らかだ。高度成長期の右肩上がりの体質にどっぷりと浸り、「寄らば大樹の陰」とばかり、今でも企業の中で「甘え・無責任」を満喫している人たち。内部統制の対象とは、そういう刷り込みを持った最後の世代たる「団塊世代」なのだ。2007年問題といわれるように、彼らの企業人生命は風前のともし火である。が、だからこそ、最後の一花とばかり必死に会社にしがみつき、悪さをする。

彼らの会社員生活では、常に会社を喰いモノにし続けてきた。高度成長期においては、何もしなくても売上が上がる。この時代においても、経営努力をすれば、平均成長率以上に成長することができことも確かだ。だが、平均成長率自体が相当な高さを持っていたので、風に流されているだけでも、そこそこの業績が上がる。これでは誰も安きに流され、きちんとした仕事をしなくなる。

「みんなで渡れば恐くない」ではないが、仕事をしないのがデファクトスタンダードになると、今度は企業にいること自体の目的が変わってくる。企業とは自分の責任を曖昧にしてくれる「風除け」であると同時に、フリンジベネフィットを吸い取る対象となった。そこにいるだけで、いくらでもおいしい思いができる。それで経営が続くのか、とも思われるが、右肩上がりが続く高度成長と、利益を求めない日本的な持ち合い制度がそれを許してしまった。

もちろん、本当に悪質な確信犯は全体の2割程度と考えられる。その一方で、そういう時代でもマジメに仕事をする人も2割ぐらいはいた。だからこそ、それなりに企業が回っていた。問題はまん中の6割にある。この人たちを、仕事をするほう、ゴマかすほう、そのどっちに向けるかということが問題の核心にある。高度成長期は、この多数派が、仕事をサボるほうに向いていたのだ。

そう考えると、この問題もまた、時が解決してくれることが理解できる。6割の多数派が、基本的に「甘えよう」と思っている団塊世代だったからこそ、悪しきに流れたのだ。80年代以降に企業人となった層は、ドルショック、オイルショック、円高不況以降の日本企業しか知らない。入社以来、コスト削減を叫ばれ、「利益は確保するもの」という意識の中で育った世代は、団塊世代とは違う。これこそ、日本企業が真の意味でグローバル化を果たす画期ということができる。


(07/03/02)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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