権利オタクの不幸






日本人の大多数を占める「甘え・無責任」な方々は、基本的に「自分のものは自分のもの、他人のものも自分のもの」とばかりに、世の中はなんでも自分が勝手にできるという思い込みがめっぽう強い。当然、「権利」というのもこの延長上で、「主張さえすれば、何でも自分のものになる可能性」として捉えている。勝手に主張すればするほど、どんどんおいしくなる打出の小槌のように。

しかし、元来権利というのは、こんなに自分勝手なものではないはずだ。権利が主張できるのは、自分が生きるべく決められた人生のあり方と、今の自分のあり方の間に差がある場合である。そういう状況下において、「その差は、当然埋めるべきものですよ」と認めてもらったモノが「権利」なのだ。すなわち、権利が成り立つには、人間の人生はあらかじめ「超越した存在」により決められていると思う「予定説」に立つことが前提となる。

「超越した存在」を、神様と呼ぼうが、仏様と呼ぼうが、阿弥陀様と呼ぼうが、それは構わない。権利を主張するには、そういう存在を信じることが重要なのだ。あるべき姿を決めるのが「超越した存在」ならば、権利を担保し、その行使を許してくれるのも「超越した存在」である。特定の宗教の教義について語っているワケではないので、ここでは「超越した存在」を、仮に「天」と呼ぼう。

「天」は、下々の一般衆生とは違う。だからこそ「天」の下では、すべての人間は対等である。この関係があるからこそ、「天」の名においてのみ権利が認められ、それを行使することができる。一般の人々だけの間では、あるがままの現状しかない。未知のものへのオプションでしかない「権利」など、認めることはできない。「天」なくしては、権利も何もないのだ。

一方「天」はまた、予定説においては、人間の運命を決めるものでもある。「天」の存在を信じることは、「運命」の存在を信じることと同値である。「運命」が定まっているからこそ、まだ顕在化していない「運命」を実現する手段の一つとして、権利がある。したがって、権利を主張するなら、運命を受け入れる必要がある。このような、「「天」の存在を信じ、運命を受け入れること」は、あらゆる宗教に共通する信仰心の基本であり、人間の行動を律するエンジンでもある。

日本人の多くは、現世利益のみに執心する農村共同体的メンタリティーが強く、宗教的な信心が薄い。支配層においてこそ、自らを律するノブリス・オブリジェ的なコンテクストを持っていたがゆえに、ある種の信仰心が根付いていた。しかし、庶民は違う。一般民衆を対象にした鎌倉期以降の仏教が、現世利益指向を強めない限り、大衆的布教に成功しなかったという歴史が、なによりこの事実を示している。

「旅の恥はかき捨て」「鬼の居ぬ間の洗濯」といったことわざが成立した江戸時代には、すでに日本の庶民が「甘え・無責任」をベースとしていたことは明らかだ。しかし、こう考えてゆくと、「甘え・無責任」のルーツは、それをさらに鎌倉期までさかのぼる可能性も高い。日本では、農奴的ではなく自由民的な「庶民」が発生すると同時に、「甘え・無責任」の気風もうまれていたことになる。

しかし、「天」の存在を信じると、もう一段スケールの大きい発想ができるようになる。現世は現世でキチンとするのだが、それは現世自体が目的なのではなく、来世で救われるための手段として捉えられるようになるからだ。こうなると、現世の利権なんて、小さい小さい。目先の権利の汲々として主張など、来世で救われることに比べれば、どうでもいいことになってしまうのだ。

ということで、権利ばかり主張する人間というのは、所詮は「器の小さいヤツ」ということになる。FSPのポイントを貯めたいがあまり、マクロ的に見れば、全体の費用を減らせる方法があったにも拘らず、それに気付かないというヤツがよくいるが、それと同じである。そんな小さな「権利」が、ほんとに自分にとって大事なものなのか。これがわからず、最も大きいものを見失っている人間は、永久に救われないのだ。


(07/03/16)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる