救いのとき





環境問題や、社会の持続性の問題が問われだして、およそ20年。誰もが、この問題については、積極的・肯定的なとらえかたをするようになった。昨今では、エコロジカルでサステイナブルであることが、人類として最も基本的な要件として認識されるようになったといってもいいだろう。これには、20世紀まで続いた「近代産業社会」的なパラダイムが行き詰まり、新たな21世紀的な枠組みが求められたという背景も大きい。

エコロジカル&サステイナブルであるためには、成長もないが衰退もないコトが何より重要になる。このところブームになっている江戸時代の再評価も、このような要件を250年間に渡って満たし、ジャポニズムにつながる独自の文化を生み出したところに着目したものである。基本的に近代社会になる前の人類社会は、エコロジカル&サステイナブルである。こういういう視点からは、中世社会こそが、一つの理想像である。

中世社会は、近代社会のような派手さこそないものの、リソースの無駄がなく、継続性も強い。近代社会の命運が400年であったとするなら、中世社会はその倍の800年以上も続いている。近代社会が、中世社会を屠った上で成立したがゆえに、近代社会は、中世的なるモノを否定しなくては、自己の存在基盤が危うくなる。中世が否定的に捉えられがちなのは、このためである。

そういう事情もあり、スタティックな社会はネガティブに捉えられやすい。しかし、エコロジカル&サステイナブルという視点からは別である。いったん「最適配分の黄金率」ができてしまえば、それを繰り返すだけで安定状態を持続できる。スタティックということは、この「最適配分の黄金率」が実現できているということだ。それができていなければ、いつかは破綻し、継続できなくなる。

よく考えてみて欲しい。人類の歴史、それ以上に、生命の誕生以来の歴史や地球の歴史という視点にたったとき、大航海時代以来の近世、産業革命以来の近代の持つ意味は何だろうかと。それは決してポジティブなものではない。我々が、近代産業社会を正義として信じていたのも、その渦中にいたからこそ、近代が正しいと思い込まされていただけのことだ。決して、永遠普遍の真実ではない。

成長が肯定されてきたのも、あくまもこの文脈の中だけのことだ。成長が全てを改善し、問題を解決するワケではない。成長が生み出す悪や問題も、数限りなくある。確かに成長がもたらしたメリットもそれなりにあるが、この400年程度の歴史を振り返り、「後付け」で評価するなら、メリットよりデメリットのほうがおおく、いわば損益計算書は赤字決算となっていることに気付くだろう。

今ある地球環境を破壊するとともに、将来にツケを廻してもかまわないと思うなら、成長も、近代社会もいいだろう。しかし、それらを重要な問題ととらえ、人類はエコロジカル&サステイナブルに生きるべきだと考えるなら、近代産業社会的なものは、否定すべき対象でしかない。人類は、もう充分地球を壊しつくした。「これ以上」を求めることは、自分たち自身の存続基盤を危うくすることと同値だ。

これから我々が求めるべきものは、成長もないが衰退もない中世形の社会である。そして、実際の中世がそうだったように、このような社会を成り立たせる原動力となるのは、深い信仰心である。21世紀は、人類が再び未来への切符を手にするのか、滅亡への第一歩を踏み出すのか、ミレニアムと呼ばれたように、重要な選択の時期である。しかし、こたえは明白だ。やはり、この問題も宗教が解決する。



(07/03/23)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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