ワーキング・プア






昨今、仕事を持ち定収入があるにもかかわらず、年収が生活保護レベルに届かないという、「ワーキング・プア」の問題が取り上げられることが多い。この「逆ザヤ」は基本的に、「官」が決める生活保護のレベルが硬直的であり、デフレ経済下でも見直しをしなかったために、実勢賃金より相対的に高レベルになってしまったところに原因がある。問題にすべきは、元来こちらである。

それはさておき、最低水準の賃金で働いている人が増加しているというのは事実である。それぞれ個々の事情はいろいろあり、個人レベルでは同情すべき人も少なからずいるとは思う。しかし、低賃金労働者全体を見渡せば、基本的には「働きに応じた賃金」というべき事例が多い。収入が低いのは、それと比例するように「能力がない」からだ。そもそも「ダメなヤツ」にまで、同じ給料を払う必要はない。

働きに応じた賃金こそ、公平だ。機会の平等が得られない社会では、問題が多い。しかし、平等な機会を与えられた結果として現れるものは、必ずしも平等ではない。結果の平等は、悪平等である。優秀な人もいれば、ダメな人もいる。結果が優秀な人にはより多く、結果がダメな人にはより少なく、分配に差が出るからこそ、向上心も生まれるというもの。悪平等が人間をダメにするのは、かつての鉄のカーテンの事例が何よりも顕著に語っている。

さて、ワーキング・プアの議論がされるとき、決まって引き合いに出されるのが「子供の教育には費用がかかるため、不公平になる」という話である。しかし、それは原因と結果を取り違えた本末転倒だ。子供の「出来」は、教育の問題ではない。能力の遺伝の問題である。統計的な傾向値の成り立つ集団で捉えた場合、子供の能力は遺伝する。優秀な集団からは優秀な子供生まれる確率と、ダメな集団からはダメな子供が生まれる確率には、有意な差がある。

もちろん、個人差はあるので、いつもいっているように、能力の高い親から能力の低い子が生まれることも、能力の低い親から能力の高い子が生まれることも、可能性としては有り得る。個人レベルでは、「突然変異」ということも充分にある。しかし、統計的な傾向値が効いてくるヴォリュームの「集団」で考えれば、明らかに有意な差がある。

能力の高い親の集団から生まれた子供のほうが、能力の低い親の集団から生まれた子供より、有意に能力が高い。そして、現代日本のような、機会の平等があり、流動性の高い自由な社会であれば、能力の高い人間の集団のほうが、能力の低い人間の集団より、年収も有意に高くなる。こんなのは、当たり前だ。そもそも、人を見る目があるヒトなら、廻りの人々を客観的に評価すれば、このぐらいのコトはすぐわかる。常識といってもいい。

これだけではない。さらに、環境の違いが追い討ちをかける。能力の高い親は、能力の低い親より、勤勉で実直である。能力とは、才能×努力。才能だけでは、可能性があっても、実力は発揮できない。それを磨く努力をしてはじめて、外からわかる能力になる。親の背中を見ていれば、子供も勤勉で実直になる可能性は高い。そもそも、ワーキング・プアになるような人材から、能力の高い子供が生まれる可能性は、極めて低いのだ。

しかし「生まれ・育ち」がそうであっても、個人レベルで本当に能力が高い人材なら、それを評価し、開花させるシステムは、日本社会には備わっている。そういう人材は、学歴とは関係なく優秀である。音大を出ていなくても、すばらしい音楽の才能を発揮するだろうし、美大を出ていなくても、すばらしい画才を発揮できる。そして、そういう才能があれば、それで充分喰ってゆける世の中である。その意味では、日本社会は公正である。

能力もないのに、学歴だけの秀才を評価してきた、高度成長期の仕組みのほうがおかしい。教育のチャンスの違いは、能力の違いとは全く関係ない。これをごっちゃにするから、偏差値だけで人間性のない秀才に権限が与えられ、自分の利権のことしか考えない、霞ヶ関の官僚のような人間が育ってしまう。大事なのは、自分がなにものかをキチンととらえ、それをキチンと受け入れることだ。高望みをするな。分をわきまえて生きろ。これが掟だ。



(07/04/06)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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