銃規制






このところ、世界的に銃がらみの事件が続けて発生した。こうなると、洋の東西を問わず決まって起きるのが、「銃の保有規制」の声である。しかし、ここでよく考えてみて欲しい。事件が起きたのは、犯人が銃を乱用したからであり、保有していただけでおこったのではない。世の中の平和を乱し、周囲に恐怖を与えた原因、すなわち問題は、銃の乱用にある。

事件の再発防止をめざすなら、銃の乱用を防ぐ必要がある。銃の乱用を防止するのが目的ならば、それは保有規制とは違う。いくら銃の保有を規制しても、使う人間はどこからか入手して保有し、使う時には使う。そもそも、日本では銃の保有は禁止されている。にもかかわらず、銃がらみの事件は続出しているではないか。この事実が、なにより保有規制が乱用への歯止めとならないことを示している。

ここで求められるのは、保有することに対する障壁ではなく、それが使用されることに対する障壁である。使用を防ぐには、使用した場合の責任を明確にすることがなによりである。まかり間違って引き金を引いたら、それだけで応分の責任を取らされる。そして、当然その結果生じたことに対しても、キチンとおとし前をつける。これを厳密にしてはじめて、使用への抑止力となる。

持つだけなら、持っても良い。しかし、使ったらそれなりのコストを覚悟しろ、ということだ。たとえば、弾丸を発射してその結果ヒトを殺したら、有無を言わさず必ず死刑に処する。傷害を与えたなら、一生釈放のない終身刑に処する。何の物的被害がなくても、単に打っただけでも無期懲役に処する。こういうルールを作れば、死刑になってもいいという「確信犯」以外、引き金を引くことはなくなる。

どんな状況でも、文字通り「命を賭けて」勝負する確信犯は、必ず存在する。いわば、個人的殉教志願者、個人的テロリストである。こういう連中に対しては、そもそもどんな抑止力も効かない。敷居を高くしても、かえって彼らの意志の力を高めてしまうのが関の山だ。彼らは、どちらにしろ引き金を引く。したがって、それ以外の「安易な利用」を抑制することが、乱用防止には何より重要なのだ。

実は、これと似た状況は、過去の日本であった。それは江戸時代の武士にとっての、刀の使用である。確かに「切り捨て御免」で、武士には刀を使用する権利がある。しかし、一旦刀を使ってしまった以上は、武士としての体面を維持するため、間違いなく切腹を命じられることになる。使う権利はあるが、使うには自分の命を差し出さなくてはいけない「最終兵器」だったのだ。

いわば「ハチの針」と同じで、使うのは命と引き換えになるが、最後の最後には、その選択肢が常に残っている、ということが抑止力になる。使わなくても、持っていることが抑止力になるという、核兵器の論理と同じである。銃の存在意義は、あくまでも力の均衡をもたらす「抑止力」の部分である。実際に行使する「破壊力」の部分ではない以上、銃保有の意義は、これでも充分に効果を発揮する。

日本においては、何事においても。事前チェック型、予防型の規制が中心になっている。しかしこのやり方では、実際の防止効果は薄い。それどころか、官憲官僚の権限を拡大し、既得権を増すだけでしかない。日本でこういうタイプの規制が横行しているのは、官僚天国である40年体制の元で、自らの利権を拡大しようというモチベーションが働いたためである。ここには、全くもって合理性はない。

防止力という意味では、事後厳罰型のほうがよほど効果がある。駐車違反の取締りを民間委託し、徹底したら違反車がへり、交通の流れがよくなったことは記憶に新しい。無賃乗車をなくすには、検札を厳しくするより、抜き打ちでキセルを摘発し、見つかったら有無をいわせず、厳しい罰を科するほうが、抑止力も費用対効果も高い。銃による犯罪を減らしたいのなら、保有制限より事後厳罰主義。これは、人間社会の常識である。




(07/04/27)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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