子供の「夢」






模型業界のヒトなどと話をしていると、最近の男のコは、クルマや鉄道に興味を持たないし、ましてや手を動かさないので、模型が商売にならなくなった、というようなグチをよく聞く。そういうハナシになると、決まってテレビゲームが敵役としてヤリ玉にあげられる。しかし、これはアマリに短絡的な発想だ。市場の構造は、Aが売れているから、Bが売れなくなる、というような単純なものではない。

ちゃんとマーケットを見るならば、テレビゲーム市場も1997年をピークに減少しており、決して「売れている」ワケではない。それだけでなく、去年からのNintendo DSやWiiのブームを支えているのは、F2M2層以上の、年齢層の高い大人である。今までゲームユーザーでない層を取り込んだからこそ、これらのゲーム機は新たな市場を獲得でき、ヒットにつながったのだ。

そもそも、第二次ベビーブームと呼ばれた「団塊Jr.」世代をピークに、子供の人口は激減している。子供の嗜好がどうだこうだ言う以前に、いわゆる「少子化」の影響で、子供に関連する市場は、どんなものであっても縮小している。かつて子供の多かった時代は、子供市場でおいしい思いをできたかもしれないが、そもそも今は子供がおいしい市場ではなくなっている。まず、この事実を踏まえることが必要だ。

子供マーケット自体の縮小を前提とするなら、それとは別の次元で、男のコの「興味の対象の変化」を捉えることはできる。今の男のコはクルマや鉄道に対する本能的興味は失ってはいないが、それ程深い思い入れを持たないコトも確かだ。その原因は、子供の変化ではなく、社会におけるクルマや鉄道の位置付けの変化に求めるべきである。子供が深い思い入れを持てなくなったのは、社会のほうに原因があるのだ。

端的に言えば、かつてはクルマや鉄道に「夢」があったものが、今はそうではなくなった、というコトになる。この「夢」の構造変化は、クルマと鉄道ではちょっと違っている。クルマの場合、ことは簡単だ。かつて70年代のスーパーカー・ブームの頃、フェラーリやランボルギーニといった人気エキゾチックカーは、明らかに雲の上の存在であり、一般の日本人にっては、とても手の届くものではなかった。

だからこそ「夢」があり、憧れがあった。その分、子供たちは必死に各車種のスペックや特徴を覚え、グッズ類を購入した。しかし、一度バブルを極めた日本人にとっては、それ以降、決してこれらのクルマは雲の上の存在ではなくなった。普通のビジネスマンであっても、結婚と持ち家を諦めれば、フェラーリでも購入可能である。そして、クルマオタクなら、そもそも結婚や持ち家なんかには希望を持っていないではないか。

かくして、どんなエキゾチックカーだろうと、それが市販車である限り、日本では「夢」の対象とならなくなってしまった。これでは、子供たちがあこがれるワケがない。まあ、「F1チームを保有する」ぐらいのスケールになれば、今でも充分「雲の上の憧れ」の領域だが、これは、サッカークラブを保有するとか、大リーグの球団を保有するとかいうのと同じレベルであり、もはやクルマの話ではない。

一方、鉄道についての「夢」は、個々の車輌より、社会の中で鉄道が持っている「意味合い」の変化による影響が大きい。今でも一部地方での整備新幹線計画などにその片鱗が残っているが、かつては鉄道が敷かれることが、その地域の繁栄の礎であり、政治的・経済的に極めて重要な要素であった。鉄道が、その地域と首都圏や近畿圏を直結することで、夢と希望を運んでくる。これが昭和の中頃まで、日本人にとっての常識だった。

大人も、鉄道そのものに、ロマンと未来を重ね合わせた時代。当然、子供たちも鉄道にワクワクする。そして、鉄道を象徴し、一番「わかりやすい」存在である車輌に思い入れを込める。もちろん、今でも新幹線をはじめ、日本では交通インフラとしての鉄道は極めて重要である。しかし、かつてのように、「未来派」のごとく、鉄道のパワーとスピードに地域の発展を賭ける時代ではなくなってしまった。

これでは、子供たちに鉄道に思い入れを持ってもらうほうが難しい。当然のように、鉄道趣味は、「日本人が、鉄道にロマンを感じていた時代」を原体験として刷り込まれた世代だけのものとなってしまった。これは非可逆的なものであり、全国が均質化し、情報ネットワークで結ばれてしまった今となっては、それに変わる「ロマンの対象」が現れることさえ難しくなってしまった。

では、今の子供たちは、思い入れの対象がないのだろうか。そんなことはない。ポケモンに代表されるような、ゲームの登場キャラクターの名前や格好、特徴やワザなどを必死で覚える男のコは数多い。これは、スーパーカーや鉄道車輌への興味と、全く同じ構造ではないか。何のことはない、対象が変わっただけなのだ。そして、夢や憧れの対象、という点でも同じである。現実世界の中には、思い入れを持てるような世界はなく、それはファンタジーの中にしかなくなった、というだけのことのなのだ。




(07/05/04)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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