歴史区分







日本の近・現代史を語るときには、なにげなく「戦前・戦後」という区分を使うことが多い。こういうスキームが定着したのは、文字通り「第二次世界大戦後」の日本社会が、「自分たちは過去とは違うんだ」という「気分」を作りたかったからである。しかし、その実態は、過去を反省することでも、客観的に事実を認識することでもなく、戦時中までの日本を「封印」してしまおう、というだけのことであった。

そういう意味では、昭和20年8月15日は、何の断層でもない。脈々と連続している時間の流れのひとつのポイントでしかない。同様に「戦前・戦後」という対比は、「ミソギのふり」以外の何者でもない。この連続性に焦点を当てると、いわゆる「40年体制」という、官僚中心の国家機構に日本社会の本質を求める見方が生まれてくる。戦時体制として生まれた「40年体制」だが、その実態は何も変わらずに戦後へと引き続いた。

偏差値主義で選ばれた「秀才」の官僚が、既得権益と許認可権限を握ることで成り上がる社会。端的に言えば、これが40年体制の本質である。無産者として生まれ、無責任者として育った「持たざる者」が、偏差値を武器に傍若無人に私利私欲を追求する。これは、明治維新により生み出された新しい政治体制が、当初目指していた社会のあり方とは大きく異なる。そういう意味では、実は大きな断層は、「戦前」の中にこそあることになる。

ここで何度も語ってきたように、伊藤博文や井上毅ら、明治憲法の起草者が理想として描いた社会は、有責任階級が、ノブリス・オブリジェを前提に政治の責任を取り、無責任階級を統治するという、英国などの階級社会型の立憲君主国である。少なくとも、未だ19世紀の間は、この理想がそれなりに機能していた。それには、社会構造的な前提がある。

江戸時代において、武士という官僚階級が有責任階級として存在し、無責任階級である「農工商」という庶民を統治していた。少なくとも、政治的な判断を求められる人間は、自分自身に対しても責任を持たなくてはいけない社会となっていた。したがって、この時代に育った人間が社会の中心を構成している間なら、明治初期の政治家たちが理想とした「明治憲政」的社会構造も、それなりに機能するわけである。

もちろん、江戸時代に先立つ戦国時代においては、武士はヨーロッパ中世の騎士のように、武装の小領主であった。しかし、それは平和な江戸時代に入るとともに、質的変化を遂げた。ご先祖様こそ「武将」だったかもしれないが、江戸時代の武士は、俸給生活を行う政治官僚になった。武士の本質は、官僚層が階級的に固定化されたものである。ここで、重要な役割を果たしたのが、儒教的な道徳心である。

私欲を押さえ、「公」としての主君に仕えるマインドを持つとともに、常に自らの責任を問われる立場であったからこそ、原則としては武士の志は高く、政治機構としても250年の長きにわたって、安定的に存続できたのだ。どちらが原因で、どちらが結果とは言いにくいが、維新の元勲たちも武士階級であり、このマインドが血肉のごとく身についていたからこそ、そういう社会構造を理想として共有できたということもできるだろう。

こう見てゆけば、日本の近・現代においては、その入口における、1860年代から1900年までの「明治憲政体制」と、出口における、1940年以降の「40年体制」という、二つの全く異なる社会体制理念が存在している。となれば、その間には移行期が存在するはずだ。まさに、1900年から1940年までの時期。それは、日本社会において階級が崩れ、大衆社会が現出する時期に他ならない。

日露戦争から、大正デモクラシー、普通選挙実施をへて、5.15、2.26事件、そして戦時体制の確立まで。この40年の間に、日本は階級という秩序を失い、「甘え・無責任」な大衆が支配する社会へと変化した。戦前回帰の必要性が語られることが多いが、「戦前」の中にこそ、戦前と戦後の違い以上の、大きな断層がある。これをわきまえずに、一口に戦前と語ることはできない。その区分こそ、「40年体制」の思う壺であることを忘れてはならない。





(07/05/11)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる