等級制






イギリス名物のパブでは、労働者階級用の店と、中流階級以上用の店と、内部が二つに分かれていて、入り口も別になっている。超大衆社会に生きる日本人は、こういう違いというと、すぐメニューやサービスといった「グレードの違い」を考えてしまうが、イギリスのパブは決してそうではない。ここでは、「両者を別にすること」自体が目的となっているのだ。

違う階級の人たちと、同じ空間で顔を突き合わせることが問題なのだ。そうならないために、居場所をわける。これが階級社会の本質である。だから、中流以上用ということと、高かったり、高級だったりすることとは、直接的には関係がない。場合によっては結果的に相関することもあるとは思うが、基本的には独立した軸である。これがごっちゃになるのは、日本やアメリカといった、超大衆社会をベースとした国々の特徴である。

そういう意味では、実際、フトコロにどれだけ金を持っているかも、階級とは関係ない。上流階級や貴族でも、キャッシュフローが切迫しているヒトはけっこういる。というより、所有する邸宅の維持費など、実際の所得とは関係なく体面上必要となるコストは、階級が上がれば上がるほど多くなる。その一方で、下流階級でも現ナマだけはタップリ持っているヒトもいる。「金を持っていることが、エラいこと」というのもまた、超大衆社会の特徴である。

ヨーロッパにおいては、交通機関の「等級制」が歴然と維持されているのも、階級社会がベースとなっているからだ。1等に乗るヒトと、2等に乗るヒトとは、階級が違う。違う階級のヒトと乗り合わせないようにするために、等級があるのだ。確かに、1等の料金のほうが2等の料金より高くはなっているものの、高いことが本質ではない。しいていうなら、体面に対してより金を出すヒトの乗り物のほうを高くした、ということでしかない。

実際、1等と2等の差は、日本のグリーン車と普通車の差より小さいし、エアラインのファーストクラスとエコノミークラスの差とは、比べるべくもない。それどころか、旧式でガタのきた1等車と、新型でピカピカの2等車が編成されているコトも多かった。それでも1等に乗る、それが階級社会の本質であり、掟ということができる。これがわからない限り、階級社会を語ることはできない。

日本でも、明治憲政期においては、ヨーロッパ的な階級社会を目標として社会制度を構築した。そのため、鉄道や海運などの旅客輸送においても、ヨーロッパ的な等級制が導入された。大正から昭和初期は、政治的な面では、日本における大衆社会の勃興期だが、その一方で明治以来構築されてきた階級社会が円熟し、文化的な面では花を咲かせ出した時期でもある。だからこそ、階級社会的なものと大衆社会的なものがせめぎ合い、覇権を競った時期でもある。

鉄道においても、この時代は、1等・2等・3等の3等級制がしかれ、きっちりと機能していた。特急列車では、1・2等で固めた列車と、3等中心の列車というように、列車自体が区別されていた。また、ローカルの普通列車でも、最低限、2等車は連結され、棲み分けができるようになっていた。等級制が事実上廃止されたのも、やはり戦時体制下であり、そういう意味では、「大衆社会としての40年体制」はここでも貫徹している。

ここで大事なのは、ヒトと場所のマッチングである。下流階級の人が、いくらお金があったとしても、1等に乗るのはそぐわないのと同じように、上流階級の人が、3等車に乗るというのも、いかにも場にそぐわない、マナーを知らないミスマッチと、周りからは思われた。この時代においては、このような「棲み分け」が、社会的な常識、コンセンサスとして、確かに共有されていたのだ。

戦後の経済発展とともに、等級制は再び機能しだしたが、それはもはや違う階級間で棲み分けるためのものではなく、単にグレードの違い、豪華さの違いだけになってしまった。そして、3等級制が2等級制になり、さらには、等級的にはワングレードで、普通車と特別車(グリーン車)となった。ここに至り、等級の差は、単なる値段の高低になってしまった。

まさに、超大衆社会ならではの格付けといえる。そういう意味では、これから求められる「区別」は、普通車とグリーン車との違いではない。それとは異なる軸を、新たに導入することになる。1等に普通席とグリーン席があり、2等にも普通席とグリーン席がある。両席の違いは、椅子のすわり心地やサービスの違いだが、1等、2等の違いは、車輌が別で、顔をあわせずに済む違いである。とはいっても、1等を必要とする人だけが、この違いをわかっていればいいだけでもあるのだが。



(07/05/25)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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