ウケを取る






日本人の価値判断の基準は、すでに何度も述べているように、昭和20年代以前に生まれた人たちと、昭和30年代以降に生まれた人たちとで、大きく変化している。簡単に言えば、昭和20年代以前に生まれた層では、あくまでも価値基準を社会の側におき、「客観的な正義や真実」をとらえ、それを基準として価値判断を行っている。それに賛成するか、反対するかという違いこそあれ、社会的正しさを認めるところが特徴だ。

これに対し、昭和30年代以降に生まれた層では、自分が好きか嫌いか、というあくまでも主観的で内面的な基準から、価値判断を行う。彼ら、彼女らにとっては、社会的な正義とか真実というものは意味をなさない。あくまでも、自分が好きなもの、楽しいものが自分にとって「正しい」ものなのである。当然、上の世代のような、イデオロギー的なとらえかたはありえない。そして、すでに社会全体で考えれば、昭和30年代以降に生まれた層のほうが主流となっている。

これまた、いつも主張していることだが、日本は世界に冠たる「超大衆社会」でもある。あらゆる意味で、大衆こそが主役であり、主権者である社会。これを成り立たせている要因は、支持の多いほう、数の多いほうを社会全体のルールとするという、民主主義の原則である。そういう意味では、「超大衆社会」は、「超民主主義社会」でもある。常に大衆の支持するものが社会のメインストリームとなるのは、民主主義の多数決の原則が、いつでも機能しているからに他ならない。

この二つの事実をつき合わせると、重要なポイントが浮き上がってくる。日本社会においては、大衆が支持するものが、社会の大原則となる。そして、大衆が支持するということは、大衆の過半数が昭和30年代以降生まれとなっている以上、客観的・社会的な基準から判断されたものではなく、一人一人が、「好きだ」「楽しい」として選んだものが、全体として一致し、多数となった結果でしかない。

すなわち、現代日本社会の基本ルールとは、「より多くの人が、「好きだ」「楽しい」と思うこと」に他ならない。そして、このパラダイムシフトは、すでに起こってしまったことである。ファッションや流行、エンターテイメントなどにおける、ヒットやブームが、こういうメカニズムで引き起こされることは、容易に理解できる。しかし、あらゆる社会の価値観が、すでにこのメカニズムで引き起こされるようになっているのだ。

小泉劇場での衆院選圧勝も、理屈や政策ではなく、「抵抗勢力退治ゲーム」が多くの人々にとって面白く楽しかったからこそ引き起こされた。主義主張は関係ない。そもそも、大衆にはイデオロギー的な主義主張などもはやない。大事なのは、楽しいかどうかだけである。楽しければ、ヤマは動く。無党派層の本質は、「アンチ政策」なのだ。無党派層を動かすのは、面白いかどうか、楽しいかどうか、これだけである。

テレビ番組の「やらせ」や「捏造」と呼ばれる問題も、全く同じである。現在の大衆の主流を占める、昭和30年代以降に生まれた層は、社会的な真実など、そもそもその存在からして信じてはいない。社会的真実がなければ、「やらせ」も「捏造」もありえない。あるのは、その番組が面白いか、楽しいかだけである。面白ければ「よい番組」、つまらなければ「悪い番組」これだけだ。

ジャーナリストが「社会的正義」を掲げて、いかに声高に主張するコンテンツであっても、つまらなければ誰も見ない。その反面、「やらせ」だろうと「捏造」だろうと、はたまた「八百長」だろうと、面白ければみんなよろこんで見る。これは、この構造自体が良いとか悪いとか言う問題ではない。そういう見方自体が、時代にそぐわない。事実を事実として受け入れ、それを前提とした対応を図ることのほうが、よほど建設的である。

そういう意味では、現代の日本社会においては、「ウケること」こそ、最大・最強の価値観である。ウケたものこそ正しいし、ウケたものこそ社会の基準となる。ウケを取るとは、社会の過半数を占める多くの人々から、主観的な判断で「好きだ」「楽しい」と受け入れられた証である。日本の社会は、こんなにも民主的なのだ。しかし、「民主主義」好きを自称する「知識人」の方々ほど、こういう現実を受け入れないばかりか、否定的に問題視しているというのは、なんとも皮肉なことか。



(07/06/01)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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