学歴不問






最近、一般の警察官や現業部門の鉄道員などの募集に、大卒の経歴を持つ人々が応募するコトが増えている。高校卒に対象を限っている場合など、中途採用で学歴をかくして応募する人も多いという。また、あまりに大卒者の応募が多く、このような制限は廃止される傾向にある。まあ、学校さえ問わなければ、大学に行きたい人よりも定員のほうが多いという、「大学全入時代」ならではということもできる。

しかしこの裏には、もうひとつの構造的問題が隠されている。それは、大学への進学が、かつてのように、就職の希望や、将来の計画に基づいて行われるものではなくなった点だ。大学へ行くかいかないか、いくとしたらどの大学のどの学部か。それは、本人の希望や考えではなく、偏差値がどれだけか、という一点できまってしまう。大学に行きたいと思わない人でも、それなりの成績があると、大学に進学してしまうことになるのだ。

この逆の例が、医学部進学だろう。偏差値が高いと、それだけで医学部進学を勧められる。元来、医者というモノは、職人肌で、自分が犠牲になっても人の命を救いたいという使命感を持っている人でないと勤まらない職業である。多少収入がよかったとしても、とても割に合わない。明らかに、医者向きの人材というのがあり、そうでない人が我慢してやるべき仕事ではない。

ましてや、偏差値が高いことなど、ほとんど必要とされない仕事である。逆に、要領のいい秀才タイプでは、バカバカしくてやってられない局面も多い。ほとんど助かる見込みがなくても、割り切って諦めずに、最後の0.0何パーセントの可能性に賭ける、というぐらいの「バカ」でなくては勤まらないし、患者の信頼も得られない。それでも、偏差値の高さを立証するためだけに、秀才が医学部を受験する。

ここで明らかになるのは、大学の社会的役割は、もはや何もないということである。かつ1970年代の頃から、大学生の時期は「モラトリアム期間」と揶揄されていたが、それがデフォルトになったということだ。大学とは人生全体を見通せば、いく必要がないし、いかなくてもいいモノである。そうであるなら、大学教育への支出は、社会的には余計なコストでしかない。

もちろん、本人が好きで支出する分には、趣味と同じで、役に立とうが立ちまいが、本人の勝手であり、他人がとやかく言う筋ではない。教育には、本質的にそういう一面がある。カルチャースクールに通う中高年女性たちが、ある種その典型だろう。費用対効果の「効果」が、あくまでも本人の主観的満足にある以上、自己責任で、自分のフトコロから支出するのは勝手である。

しかし、問題は、私学であっても大学に対しては公費の補助金が出ている点だ。必要のないものに、多額の補助金が税金から支出されている。これでは、税金の無駄遣いだ。直接的補助だけでなく、役所が関わっている以上、多くの人間がその運用に携わっており、ここまで含めると、納税者に課される賦課は極めて大きくなる。こうなると、もはや本人の勝手とはいっていられない。

なくていい大学が存在し、出なくていい人間がそこの学生として通っている。個人の自由といえば自由だが、通っている当人も、必ずしも「勉強」することに意義を感じていない。そこに、巨額の無駄な費用が使われている。それが現実である。百歩譲って、何らかの学校に行くのはかまわないが、それなら社会人としての基礎、きちんと場の状況を読んで、TPOに応じた挨拶や態度を取れる「実務教育」でもやってもらったほうがよほどいいといえよう。


(07/06/15)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる