官業・民業







民間でできることは、官から民へという流れは、80年代の国鉄、電々公社、専売公社の民営化から20年を経て、基本的には「常識」として定着した。しかし、学校の民営化、保育園の民営化などといった、教育・生活関係の事業の民営化となると、いまだに。反対するヒトがけっこういる。特に、「無責任野党」には、「質の低下を招く」とか称して、そういう主張をする人が多い。

民営化の基本は、受益者負担である。高付加価値なサービスなら、高負担になる。低付加価値なサービスでいいなら、低負担で済む。画一的なサービスの提供を避け、価格による市場原理を生かすことで、それぞれが求める質のサービスを、それぞれの適正なレベルの負担で実現する。だからこそ、無駄がなくなり、効率化する。そもそも、自己責任で自己負担というのは、自由社会の大原則である。

そういう意味では、民営化においては、単にサービスメニューだけ見るのなら、画一的サービスのときに比して、サービスの質が落ちる場合も、サービスの質が上がる場合も、どちらも有り得る。質が落ちる場合には、当然価格も下がる。質が上がる場合には、当然価格が上がる。自分のニーズとフトコロの具合に合わせて、フィットするサービスを選ぶことができる。

ここで問題になるのは、現状のコスト構造だ。官業においては、現状のサービスが、真っ当なコスト構造を前提にしていないものが多い。そもそも税金から過剰な補助金等が支出されるのを前提に、民間以上の高給で、より多数の従業員を抱え、施設や資材等も極めて高コスト化しているものが多い。こういう事業は、純粋に収益性を見た場合、当然コスト割れしている。

いわば、極端な赤字経営の事業を、公費で補填してもらってる状態である。そもそも、地方公共団体などが行っている事業には、こういうモノが多い。こういう状態のサービス事業であるなら、当然、受益者が支払うコストは、実際のコストより大幅に低くなる。しかし、実際は受益者が支払うべきコストを、関係ない多数の納税者の納める税金でまかなっているに過ぎない。

この構図では、サービスを受ける側にとっても、サービスを提供する側にとっても、公費の投入が、「既得権」となっている。サービスを受ける側が、少ない自己負担でサービスを受けられる一方、サービスを提供する側も、本来のコストを反映した場合に比して、より高額の給与を得ている。これらのサービスにおいては、税金負担が少ないワリに、結果としてのサービスを得ている低所得者層と、それを提供している地方公務員が、甘い汁をすっていることになる。

その一方で、官営サービスで損をしている層もある。官業のサービスは、極めて画一的なところに特徴がある。その結果、たくさん税金を払っているにもかかわらず、同じレベルのサービスしか受けられない人々は、税金を只取りされていることになる。税金ではなく、民営化し受益者負担のサービスとすれば、同じ支出で、もっといいサービスが受けられるはずなのに、である。

もちろん、ある種のセーフティーネットとして、生きてゆくため最低限必要なレベルのサービスについては、公費を支出するアカウンタビリティーがあるし、そういう領域においては「官営」で行うことも許されるだろう。しかし、それは「必要最低限」でなくては、アカウンタビリティーはない。それ以上の高質なサービスを求めるのであれば、それは「自己負担」が原則である。画一化から脱しさえすれば、サービスの質は上がるのだ。



(07/06/22)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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