戦争無責任






夏、8月は、「戦争」の記憶の季節である。「終戦記念日」としての8月15日(ポツダム宣言の受諾を連合国に回答した8月14日や、VJデイの9月2日ではなく、8月15日が記念日なのは、そもそもこの日が、戦争に関する記念日ではなく、戦争で亡くなった人々を弔う「お盆」である、ということらしい)をピークに、戦争の悲惨さやむなしさを語ることが「タテマエとしての正義」となる月間となる。

かつて昭和の時代、この時期になるとにわかに活気づくのが、「革新政党」や「良識派知識人」、そして「進歩派ジャーナリスト」たちであった。それらかつての「自称善人」たちは、こぞって、護憲意識とか、原爆や空襲など、戦争に対する一般民衆の被害者意識とか強調したものである。しかし、よく考えてみると、このような主張こそ、日本人の戦争に対する無責任さの表れであるとみることができる。

戦前の日本は、議会制の立憲君主国であり、1920年代以降は、男子のみとはいえ、全ての国民にひとり一票が与えれる「普通選挙」が実施されていた。20世紀初期の世界を見渡せば、世界の多くの地域、多くの人々が、欧米の植民地だったり、奴隷状態に置かれていたりしたワケであり、まがりなりにも日本は、あくまでも「当時の常識」でいえば「民主的な国家」であった。

もちろん、「20世紀後半の常識」からいえば、違う解釈も成り立つ。しかし、歴史を後付けでみたところで、何の意味もない。当時の世界の価値観を前提に、どういうポジショニングを占めていたのかを見極めることが必要である。ナチス党の所業は、極めて問題が多いが、それとナチス自体が、民主的なワイマール体制の中から人々に望まれて登場したこととは別問題である。後付けの見方では、この峻別ができなくなってしまう。

実際、大正デモクラシーから昭和ヒトケタという時代の日本では、「憲政の常道」を踏まえた政党政治が花開き、多様な主義主張を持つ政治的リーダーが存在しえた。その中には、欧米的な自由主義的な経済を信奉する人々もいたし、ファシズム的な大衆主義を主張する人々もいた。本当に国民が望むのであれば、どんな道でも選ぶことは可能であった。当時の社会を、客観的に分析すれば、こういうことになる。

そのせめぎ合いの中から、維新官僚・青年将校を支持し、40年体制への道を強烈に推進したのは、労働者・農民といった、当時「無産者」と呼ばれた大衆の力である。5・15事件、2・26事件といったクーデターは、実は「自由主義」対「無産者」の戦いの中で、無産者の代表としての「青年将校」が起ち上がったものである。そして、「無産者」たる大衆が熱烈に望んだからこそ、日本は戦争に突入した。

その意味では、日本のローカルルールではなく、当時の世界のルールからすれば、大衆には、戦争を選んだ責任があるし、その結果起こった不利益も、決して他人事ではない。大衆特有のマスヒステリー状態とはいえ、責任はあるのだ。そもそも近代戦争は総力戦である以上、市民にも責任がある。だからこそ、一般人も命のリスクを負わなくてはいけない、というのが当時の連合国、すなわち欧米諸国のロジックであった。

しかし、当時も今も、日本の大衆は責任を持ってその道を選んだという意識はない。いや、責任を感じないからこそ、戦争の道を選んだというべきだろう。日本の大衆は、「自分が選んだ道」という意味で、戦争に責任があるにもかかわらず、責任を取る気もないし、責任があるという意識すらない。これが無責任社会・日本の極みである。

日本の大衆の「甘え・無責任」な性格は、戦前も戦後も一貫して変わらない。無責任にはじめてしまった戦争である以上、無責任なまま責任逃れを続けるのが一番ということになる。これを正当化するには、被害者面して開き直るのが一番なのだ。けっきょく護憲とか反戦というのは、この「開き直り」の手段に過ぎない。だからこそ、無責任の権化たる「革新政党」や「良識派知識人」は、護憲、反戦を叫ぶのだ。共産党とか社民党とか、こういうアホがいまだに存在するということには、ほとほとアキれてしまうのだが。


(07/07/20)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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