こころの幸せ






最近では、レトロの対象として懐かしまれるようになった、昭和の高度成長期。確かに、その時代を生きた経験のあるものにとっては、鮮烈な記憶を残している。しかしよく考えてみると、鮮烈であるということは、言い換えればその時代がそれだけイレギュラーで「想定外」な時代だったということになる。高度成長期の体験は、一般化できるものではないし、他の時代において通用するものでもない。

そのワリには、多くの日本人にとって、高度成長期が「原体験」となり、リファレンスとなっているのが、この平成の世であるといえるだろう。成長こそ正義であり、右肩上がりこそ望むべき姿。こういった願望は、高度成長期の歪んだ刷り込み以外のなにものでもない。この結果、より大きく、より良いものを常に求め続ける「上昇志向」が、日本人の意識の基調となってしまった。

しかし、大衆が上昇志向を持っている社会は、極めて不健全な社会である。現状に満足し、「今のまま」で刹那的に生きることこそ、実は大衆の本質である。こういう「大衆文化」が根付き花開いている限り、社会は安定する。江戸時代の社会の美しさやある種の合理性、ヨーロッパ社会の持つゆるぎない伝統の力。これらは、人々がすべて「あるがまま」を受け入れ、高望みしないことからもたらされたのだ。

多くをもとめ、その結果不満を募らせ、さらに多くを求めるという悪循環の世界。現状に満足し、その結果心の平静を得て、安定的に推移する世界。こう対照させれば、どちらが望ましいかは明らかだ。人類史的にみれば、上昇志向をあからさまにし現状を否定する、高度成長期的なスキームのほうがおかしい。現状肯定からスタートすべきなのだ。今の自分に満足し、現状を肯定する。それは、精神の持ち様次第である。

絶対的な満足点というものは、永遠に存在しない。ひとたび「もっと上」を求めだすと、どこまでいっても「もっと上」を求めるようになる。成長主義のもたらすものは、終わりのない悪循環だけなのだ。どこまでいっても満足は得られず、終わりがないことが最初からわかっていれば、そんなリスキーな道を選ぶヒトは少ないだろう。今の自分に対し、常に不満を持ち、変化を求めることは、「壮大な無駄」を引き起こす第一歩ということができる。

開発途上国が経済発展し、take offを遂げると、エネルギーや原材料、食料などを爆発的に消費するようになる。無駄な資源の消費というだけでも問題があるのだが、消費すれば当然それに見合う量の廃棄物が生成される。それが排出されれば、環境問題という意味でも、大きな問題が生じる。昨今の中国の経済成長に伴う問題などが、そのいい例だろう。これらは全て、上昇志向がもたらす弊害である。

「右肩上がり」を求めず、現状に満足すること。それは、一人一人が、分をわきまえるコトによって実現する。このような社会こそ、サステイナブルでエコロジカルである。「成長と環境の両立」など、言葉の遊びでしかない。あるのは、現状への満足か、現状への不満か、だけである。そして、不満はさらなる不満を生む、バッドサイクルの無間地獄しかもたらさない。成長を求めることが、人類を、そして地球を破滅に導くのだ。

満足しようと思えば、現状で満足することはできる。モノゴトには、どんなものでも、必ずいい面と悪い面がある。もちろん、いい面が多いモノ、悪い面が多いモノ、とその存在確率はさまざまである。しかし、いい面ばかり、悪い面ばかりということは決してない。だからこそ、いい面だけを見つめ、悪い面にこだわらなければ、いかなる場合でも満足することができる。「全て、心一つ」なのである。


(07/07/27)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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