ジャーナリズム離れ






「新聞離れ」といわれ、新聞業界の危機が語られることが多い。しかし、厳密に言えば、今日本で起こっていることは、「新聞離れ」ではなく、「ジャーナリズム離れ」である。生活者にとって、新聞の一部を構成する広告やチラシは、今でも極めて有用な情報である。テレビ欄や天気予報なども、有効に活用されている。必要ないのは、エラそうにもったいぶった「記事」なのだ。

そもそも、マスとジャーナリズムとは、両立するものではない。圧倒的多数を占める、大衆の支持を得たいのか。ストイックに、自己主張をしたいのか。諸外国においては、この両者は、大衆紙とクォリティーペーパーとして、古くから住み分けてきた。そして、クォリティーペーパーは、常に量より質を重視してきた。こと、日本においてのみ、この両者が曖昧なまま、「マスメディアとしての新聞ジャーナリズム」が出来上がってしまった。

日本における新聞の部数の伸びを見ると、マスとジャーナリズムの不思議な蜜月が、どうして引き起こされたか、すぐにわかる。それは、日本における大衆社会化が進み、大衆のマス・ヒステリー的な支持のもと、それまでの自由主義経済的な体制を捨て、国家社会主義的な戦時体制へとひた走ってゆく中、大衆の熱狂をアオる「戦争報道」の中で形作られた。この結果、戦時中には400万部近い部数を誇る大新聞も生まれた。

自由民権運動から出発した日本のジャーナリズムは、常に反権力、反中央の、斜に構えたニヒルなスタンスが売り物であった。この在野のアンチ精神は、無産者や農民の中からその偏差値の高さにより「出世」した、「青年将校」や「維新官僚」のマインドと共通するものがある。だからこそ、明治憲政体制が、無産者的・国家社会主義的な体制に変わってゆく中で、その精神的支柱となれたのだ。そういう意味では、日本の新聞もまた、40年体制の一部ということができる。

これがわかると、実は40年体制の申し子である団塊の世代までは、「日本的ジャーナリズム」それなりに通用した理由も良くわかる。団塊世代の類まれな求心力は、強烈な上昇志向に基づく自己同化の賜物だ。しかし、その原動力は、戦時体制下における「権力ヘの求心力」が「経済力への求心力」に変わっただけで、そのメカニズムは全く同様の構造ということができる。まさに、団塊世代が「最後の旧世代」たる由縁である。

新人類以降、日本が先進国となり、安定して豊かな社会の中で育った世代には、こういう「上昇志向」に基づく求心力は働かない。これがなくては、マスとしてのジャーナリズムは成り立たない。これが「ジャーナリズム離れ」の本質である。もはや、マスとジャーナリズムを同時に狙うことはできない。「不思議な蜜月」は、すでに過去のものとなった。このような時代においては、メディアはどちらを向くべきか。

マスを狙うなら、大衆を向くしかない。大衆は、外側からどういう刺激を入れても、第三者の思うようには動かない。自分たちが好きなほう、気持ちいいほうにだけ、一方通行でしか動かないものだ。ジャーナリズムを狙うなら、数は絶対に取れない。いや、数が取れないからこそ、質が評価されるのだ。誰にもわかって、誰からも支持されるようなモノは、「常識」であって、あえて主張することではないからだ。

大衆を「啓蒙」することなどできない。大衆とメディアの関係においては、「メディアが大衆に合わせる」以外、大衆の支持を得る方法はない。メディアがマスである以上、大衆に迎合した口当たりのいいモノでなくてはならない。これは「大衆主権」で述べたように、のちのメディアが流行らせた「一億総白痴化」ではなく、「一億総白痴」と語った大宅荘一氏の慧眼である。

大衆と対峙するときには、つねにこの「あわせるコト」が重要となる。マス・マーケティングの本質は、実はここにある。こんなにいい商品だそ、こんなに優れた商品だそ、と「啓蒙」しようとしても、そもそも大衆は現状肯定的なのだ。あえて努力して現状を否定し、そこから向上しようという意欲を持っていない。

気体の熱力学的な特性のように、大衆を構成する個々の成員についてみるならば、それぞれ勝手な意思を持ち、全体のことなど何も考えずに、バラバラに行動している。しかし、統計的な対象となりうるような「多数」の集団となると、全体としての確率的な方向性が生まれてくる。「大衆の意思」とは、このように、統計処理上の結果としてしか捕らえようがないものである。

だからこそ、それを意図的に左右することはできない。それは、とりもなおさず、どんな新しい変化も、「大衆のうねり」の前には、飲み込まれ、跡形もなく消えてしまうことを意味する。これこそが、プロダクトアウトではなく、マーケットインの真髄である。言いかたをかえれば、普及率がマスレベルに達したということは、とりもなおさず、その商品やサービスがコモディティー化したともいえる。

メディアや情報においても、マス・マーケティングという意味では、全く同じコトである。強く支持され、数が出るのは、大衆と同じ目線で、まったりと楽しめるもの。すなわち、コモディティーな情報である。その一方で、コモディティーな情報を扱うのでは、ジャーナリズムとは呼べない。そう、大事なのは「どちらを取るか」を決めるだけなのだ。マスの量か、ジャーナリズムの質か。これを選べないような優柔不断な経営では、そもそも社会からNOを食らってしまうのだが。


(07/08/03)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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