大衆と政治






7月に行われた参議院議員選挙で、民主党が大躍進、与党が惨敗し、政局が一気に揺れ動きだした。それとともに、この選挙結果をもたらした要因についても、いろいろな人がそれらしく論評している。一番外しているのは、年金問題や不祥大臣の任命責任といった論点で政策論争が行われ、有権者の政治的意識や関心が高まってきたというものだ。旧態依然とした政治ジャーナリストがそう思いたい気分はわかるが、単なる思い込みである。

確かに、いくつかの一人区での選挙戦では、政策論争が決め手となったところもあるとは思う。しかし、大多数の国民は政治には関心がないし、政策にも関心がない。それより、選挙に行くかいかないかは、その選挙自体がゲームとして面白いかつまらないか、という点にかかっている。面白ければ投票所に行き一票を投じるが、つまらなければアッサリ棄権する。この「選挙が面白いかどうか」の基準は、政策そのものとは全く関係がない。

このように、面白いかつまらないか、楽しいか楽しくないかだけで行動を決める傾向は、別に選挙に限ったものではない。日本の大衆においては、この10年ほどで、すっかり「行動の基本」として定着した。あらゆるもので、旧来の「実質価値」が意味を持たなくなり、面白い、楽しいといった気分だけが判断基準となっている。この傾向は極めて顕著であり、それが逆行しているという兆候はどこにもない。

また、小泉改革政治に対する反動で、既得権益を擁護する勢力のほうが盛り返したから、旧田中派的な要素と、旧労働組合的な要素を併せ持つ民主党が躍進した、という見方も、極めて一面的である。そもそも小泉首相は、既得権益の打破には極めて熱心だったが、「その後をどうするか」に関しては、今ひとつヴィジョンが見えなかった。そういう意味では、破壊者であっても、改革者ではなかった。

もっというと、小泉首相の「破壊」とは、「田中派憎し」の感情を、はっきりと形のある「落とし前」としてつけたかった、ということでしかない。具体的には、田中角栄氏が開発した、「官」補助金や許認可権といった権益と、それに群がる民間の既得権益構造を壊すことこそが、目的であった。結果としてそれは、日本においては、市場原理を活性化することにつながるため、同床異夢で新古典派的な構造改革を目指す人たちと組むことができたというだけである。いわば、「改革」は、手段であって目的ではなかったのだ。

安部首相は、その「小泉改革」を継承する、と口では言っている。しかし今見たように、継承すべき「改革」は、破壊だけで実体がない。これでは、継承べきものがない。しいていうなら、「破壊を継続する」ということなのだろうが、調整力だけで実行力を伴わない安部首相では、「破壊」すら行うことは難しい。けっきょくは、その意味がわからないまま、言葉面だけを気分でなぞっている、といわれても仕方ない。このように、改革に対するスタンスの違いで、参院選の結果を読み解くことも難しい。

けっきょくは、これもまた「劇場政治」なのだ。今回の選挙では、双方の「芝居」を見比べたとき、自民党の仕掛けた「台本」よりも、民主党の仕掛けた「台本」のほうが面白かったから、民主党が勝ったというだけのことである。いや、厳密に言えば、自民党が小泉首相のときのようにウマく仕掛けられず、自分でコケてどんどん墓穴をほっていったから、それに乗っかった民主党が勝てた、ということである。

前回衆院選のゲームは、ひとことで言えば、「刺客対抵抗勢力」の対決にきみも参加しよう、というものである。なんか面白そうだし、抵抗勢力をやっつけるのは、それ自体「タテマエとして正しい」ようだから、遠慮せずに叩ける。小泉自民党を支持した「無党派層」のメンタリティーは、こういうものである。改革を支持しているわけでもないし、小泉首相の政策がどういうものかも知らない。自分にどう影響するかも関係ない。そこには、「ワクワクする参加感」があるだけなのだ。

この呈で行けば、今回の参院選のゲームは、「ごまかし屋の安部首相を、みんなでイジメよう」ということになる。これは「悪い子を懲らしめる」ことなんだから、決して非難されるようなイジメじゃないんだよ、と、これまた「タテマエとしては正しい」構図があるから、やはり遠慮せずに叩ける。泣き虫っぽい安部首相が、泣き出すところを見てみたい。その心理は、いじめられっ子を、「タテマエ的に正しい主張をウマく使って、集団でイジメる」という、日本の大衆がもっとも好きな構造である。

良い悪いの問題ではなく、民主主義を基本とし、大衆に圧倒的に主権がある現代の日本では、大衆が楽しく面白く思うほうにしか、世の中は動かない。そして、大衆は外からは動かせないという特徴がある。彼らを団結させ、同じ方向に躍らせるには、「タテマエとして正しいことで、誰かをイジメる」という、構図が一番である。そして、けっきょくのところ、劇場型政治とは、この「集団イジメ」を最もスマートなカタチで実現したものに他ならないのだ。


(07/08/17)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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