人権と甘え







80年代以降、日本においては極めて「人権」が重視されるようになった。しかし、この期間を通して、日本人一人一人の「人間としての価値」が高まったわけではない。すなわちこの変化は、人権意識だけがどんどん暴走している状態といえる。このような現象が現出したのは、日本における「人権意識」というものは、日本の大衆特有の「甘え」意識の変形したものに過ぎないからである。

「自立した個」が存在する社会においては、人権とは、当人が、他人に迷惑を及ぼさず、自己責任において行うことについては、他人がそれに対し足を引っ張らず、自由に行うことができる権利である。生きかたにしろ、行動にしろ、思想信条にしろ、自分以外の何人からも干渉されないことを担保するものが「人権」である。この範囲においては、「人権」は尊重されなくてはならないし、人間にとって最も重要な価値であるといえる。

しかし、ひとたび「自立した個」が存在しない社会に「人権」という言葉だけが移植されると、様相は一変する。人権とは「既得権」であり、いわば「お上」が与えてくれる、ありがたい役得になってしまう。ワガママに、自分の「権利」を主張すればするほど、それに見合った分を、誰か「公的組織」が補償してくれるシステム。これがまさに、現代日本における「人権」の正体だ。

差別でも、ハラスメントでも、人権侵害は、基本的に侵害した人間と、侵害された人間との間での、個と個の関係である。自分の生きかたに対し、他人から干渉されたことが問題なのであり、責任はあくまでも干渉した人間にある。個と個の問題だからこそ、当事者がキチンと責任を取らない限り、解決し得ない。「自分がヒトからされたくないことを、他人にしてはいけない」というヤツだ。

しかし、日本のように「甘え・無責任」な大衆が大多数を占める社会では、ちょっと様相が違ってくる。侵害した側が、あくまでも自分は「特定個人」ではなく、「不特定多数」の中の匿名の存在であることを前提に行動している。こういうヒトたちの間では、個と個の問題が発生しない。匿名の不特定多数ゆえ、たとえ自分に向けられた行為であっても、サッとかわしてしまえば、いくらでも逃げられる。運悪く当たってしまったほうが、災難なのだ。

そしてまた、侵害されるほうも「甘え・無責任」な大衆ときている。こうなると、侵害されたほうも、個対個のレベルでの問題解決は求めない。落としどころは、おのずと「集団の中で、どうイロをつけた落とし前をつけさせるか」ということになる。かくして、人権とはゴネればゴネるほどおいしい、既得権益化する。人権の「権利」は、名誉権から財産権になってしまうのだ。

ということは、既得権益拡大し、「失うもの」が多くなれば多くなるほど、歪んだ「人権」意識は高まる。人権意識の暴走の影には、既得権の拡大がある。官僚が、天下国家の政策より自分の天下り(皮肉にも天下と天下りは、同じ漢字だ)や許認可利権の方を考えるようになったのは、右肩上がりの高度成長がドルショック・オイルショックで終わり、安定成長下で各企業の自助努力のほうが業績に影響するようになった、1980年代からといわれる。

こう考えると、官の利権構造の変化と、「人権」意識の高まりが、どちらも1980年代からはじまるというのは、偶然の一致ではなく、同じ構造の裏表であるからこそ起こったことであることが良くわかる。1960年代ぐらいまでの日本社会では、ケガをしようが死のうが、自分のミスで起こったものなら、間違いなく自己責任であった。それが、今では「風が吹けば桶屋が儲かる」レベルのつながりであっても、一応、相手の責任を声高に叫んで訴訟になる。

当然、責任を求める対象は、特定個人ではなく、企業や行政といった組織である。いつもいっているように、そもそも日本の組織は、個人の責任を曖昧にするために作られたモノである。そういう組織のせいにする分には、誰も責任を取らなくていいし、そのほうが既得権も増大する。訴えられた組織の人間も、基本的には無責任人間だし、明日は訴える側になるかもしれない分、既得権が増大することは悪い話ではない。

このように、日本においては、寄らば大樹のおいしい汁を吸う別ルートとしての「人権問題」が確立してしまった。これを財務的に成り立たせていたのは、官僚の利権構造と同様、右肩上がりの経済成長である。実は、右肩上がりが立ち行かなくなったこそ、官僚システムが不要になったのだが、勉強ができるだけでカゼを読めない高級官僚たちは、ここで重大な勘違いをしていたということができる。

その結果が、バブル経済からバブル崩壊、失われた十年ののちの金融危機という、日本社会のダッチロールである。そして、誰の目にもその矛盾が明らかな時代となった。その前提が崩れた以上、日本的な「人権」の行使も限界に来ている。自立した個のような顔をして、西欧から移入した概念を換骨奪胎。日本的な利権システムとなった「人権」など、もはや主張する余裕はない。「甘え・無責任」な大衆は、「自立した個」ぶる意味はなく、甘えられる共同体に戻るべきなのだ。



(07/08/17)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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