仮想の団塊







最近でこそ、「階層化の進展により、団塊世代がいくつかのクラスターに分化する」などという物言いがなされるようになった。しかし、バブル期、いや1990年代の半ばまでは、団塊世代といえば、強烈な上昇志向に基づく求心力に支えられた「なみ外れた横並び意識が」特徴で、その結果均質的な「団塊」を成しているというのが、マス・マーケティングにおいては「常識」であった。

確かにこの世代は、大企業のブルーカラーが中心であったが、大企業においては年齢が同じならば、高卒ブルーカラーも大卒ホワイトカラーもそれ程年収の差はない(もっとも、「社歴」でみれば差はある)。このため、消費生活という意味では、比較的均質的で、隣がクルマを買い換えれば、ウチも買い換える、というような、「横並び消費」が行われてきたことも事実である。

しかし、それはなにも団塊世代がすべての面で均質だったことを意味しない。というより、団塊世代が均質的という「神話」自体が、あくまでもマス・マーケティングに限って妥当性を持つ経験則だったに過ぎない。そうであるものを、当の団塊世代自身が、自らその神話を積極的に信じ実践することにより、団塊世代においては、あたかもあらゆる面で均質性が特徴となっているかのように、自己暗示にかかっていたに過ぎない。

この団塊世代自体が実践したトリックに、日本社会全体が見事にハマってしまっていたのだ。たとえば、団塊世代は全共闘世代と自称する。しかし、この世代の大学進学率は一割台。マジョリティーは、高卒で都会の工場に集団就職した人々だ。60年代末の学生運動が盛んな頃は、多くがすでに就職し社会人となっていた。これでは、全共闘が世代共通の記憶たりうるわけがない。この取り違えは、大卒ホワイトカラーも、高卒ブルーカラーも対等なのだ、という意識の中で意図的に生み出されたものである。

また、「団塊世代はビートルズ世代」という「神話」も眉唾だ。日本の洋楽ファンの間でビートルズの人気が高かったのは、欧米に比べるとワンテンポ遅れて、60年代後半のことである。この60年代後半というのは、メジャーな邦楽では、グループサウンズが全盛の時代である。そして、このグループサウンズのメンバーとして一番多かったのが、団塊世代。聴く側ではなく、やる側だったのだ。ビートルズ世代は団塊の一つ下、1950年代生まれの世代であり、団塊世代は、洋楽でいえばヴェンチャーズ世代である。

さて、団塊世代の団塊性が「虚構」である、ということになると、団塊世代内のクラスター構造が問題になる。ここで意味を持つのが、団塊世代は、古典的なリーダー・フォロワー関係が成り立つ最後の世代、という点である。これにより、団塊世代における最も基本的な構造は、この世代のオピニオンを引っ張る少数のリーダー層と、購買力など、この世代のパワーを担う多数のフォロワー層という関係であることがわかる。

あるマーケティング調査の結果によると、中学生のときに自分の個室を持っていた層は、団塊世代でも一割ほどいる。ちなみに新人類では、これが三割強に上がる。同じく高校生のときに自分専用のテレビを持っていた層は、団塊世代で約15%。新人類では、40%を越す。これを見ると、団塊世代とはいっても、そのあと登場した新人類世代に通じるような意識や初期体験を持っている層が、一割前後いることがわかる。

実は、この層は、都市部出身・高学歴で、保有する資産も多い層である。こういう「ハイソ団塊」は、その親のプロフィールに特徴がある。すでに親の世代から都市部に定住しており、戦前において、高級官僚や上級将校、大手企業のビジネスマンなど、当時の時代背景の中では、相当な地位と収入のあった人たちだったのだ。ここでいう団塊世代のリーダーは、こういう戦前の中流以上層のお坊ちゃま、お嬢さまなのである。

農村部出身者が大多数を占める団塊世代においては、彼ら、彼女らは、飛びぬけてハイセンスな生活をしており、当然、そのライフスタイルは、同世代のアコガレであり、目標となった。それだけでなく、彼ら、彼女らの多くが、ミュージシャンやアーティストをはじめ、カメラマン、デザイナーといったクリエイティブな職業についたり、ちょうど就職期に発展した、マスコミや広告といった業界に就職した。そして、自分達のライフスタイルを広めることに、努めて貢献した。

伝説のバンド「はっぴいえんど」を結成し、その後YMOのリーダーとして世界を制覇した、日本のロック界の重鎮、細野晴臣氏などは、まさにその典型であろう。氏の父親は、あのタイタニック号の乗客であり、九死に一生を得たコトはよく知られているが、当時の日本にそういう国際人は何人いただろうか。そもそも60年代後半に、楽器を買ってバンドをやれるというだけで、非常に裕福で余裕がある証である。氏は立教大学出身だが、当時の慶応や立教といった名門私立大には、そういう人たちがけっこういたのだ。

昨今、シニア化する団塊世代を狙うマーケティングを模索する動きが目立っている。しかし、これらの多くは、この世代が、未だに「均質で横並び」であるコトを前提にしている。だが、団塊世代のマジョリティーは、背伸びに疲れだしたのも確かだ。それでは、ヴォリュームは狙えない。狙うべきはアベレージではなく、この「ハイソ団塊」なのだ。全体が多い分、一割前後のこの層も、絶対数としてはそこそこある。ここが他世代と違うところである。

昨今話題のオヤジホビーを牽引している団塊男性も、この層である。ハイセンスで個性的な消費をしている団塊女性も、この層である。「あわよくばヴォリュームゾーン」ではなく、確実な消費支出を行うこの層をきっちりと押さえることが、団塊攻略の第一歩である。ここがキチンと押さえられてこそ、当然、この世代の他の層にも波及効果は狙える。三つ子の魂百まで。今でも、リーダー・フォロワー関係は崩れていないのだから。



(07/09/14)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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