法治主義





大相撲時津風部屋の「リンチ殺人事件」が、世間を賑わせている。いろいろ問題の多い角界の中で起きた、ちょっと猟奇的なニオイもする事件なだけに、スキャンダラスな興味をひくことは間違いない。それはそれでいいとは思うのだが、この事件に対する世の中の論調を見ていると、気になる点が一つある。それはどういう視点から、この事件を論じ、断罪するか、という問題である。

明確な殺意の有無はともかくとして、「リンチして殺してしまった」事実に対しては、殺人は殺人である。言語道断、どんな申し開きもできない。また、殺人の犯行を隠蔽しようとしたコトに関しても、極めて悪質である。このように、この事件は、本質的に「殺人事件」なのである。ところが、この話題が取り上げられる際には、「角界のリンチ事件」というところにスポットライトが当っている。

この「殺人事件」という事実と、「暴力の是非」とは、全く次元の違う話である。片方は刑法上の問題、片方は主観的な好き嫌いの問題である。ところが、この二つの面が混同されている。それは、この両者をあえて分別せず、曖昧に混同して語るほうが、「大衆好み」だからに他ならない。もっとはっきり言えば、本来価値判断が曖昧な暴力についても、はっきり「悪」である殺人と一くくりにして語ったほうが、タテマエ的で気楽だということだ。

殺人事件のほうは、どうであっても許されるものではなく、法律に従って厳しく処分されてしかるべきものだ。こちらは、極めて厳粛かつ厳格に判断する必要がある。その一方で、「暴力の是非」は、必ずしも一般論で答えが出せるものではない。もちろん、理不尽な暴力は、それが許されない場合もある。しかし、他に解決手段のないときまで暴力を否定するのは行き過ぎだ。それは自虐史観に通じる、弱虫負け犬の遠吠えである。

今の日本においては、悲しいかな、暴力の使用を毛嫌いし、否定する風潮が強い。それはそれで、一つの意見・見識としては認めるが、それを金科玉条のごとく絶対的な正義として捉えるのはおかしい。あるいは、「自分は暴力は嫌いだから使用しない」というのは、非暴力主義として尊重するべきだが、だからといって、それを第三者に強制するのはおかしい。自分が、自分の主義主張という範囲で実行すればいいだけのことだ。

実は、第三者に対し、自分の意見を押し付けることは、実は相手に対して暴力を振るっていることと何らかわらない。それがいかに自分のタテマエ上「良いもの」であるとしても、相手に対して「それを強制する」ということは、暴力と同じものであることを、こういう方々は理解できないらしい。「良いものか、悪いものか」こそ、主観的なものである。自分にとって良いものが、相手にとっても良いとはかぎらないのだ。

今の日本では、昭和30年代以降に生まれた層では、「正しいかどうか」ではなく、「好き嫌い」が、モノゴトの判断基準になっている。マーケティングなどでは、売れればいいのだから、この変化に対応すればいいだけのこと。しかし、法律解釈の問題となると、そうはいかない。法治主義の大前提は、誰がいつ判断しても、同一の解釈で、同一の結論に至ることである。好き嫌いだけで判断するのは、まさに私刑の世界になってしまう。

さて、2009年度から、一般の市民が刑事裁判に参加し、被告人が有罪かどうか、有罪の場合どのような刑にするかを裁判官と共に決定する「裁判員制度」が施行されることになっている。日本の大衆においては、このように、法律的な普遍性をもつべき判断と、主観的な好き嫌いが混同される傾向が強い。すでに感情論をベースに、現行法で課することのできる最高刑より、より重い量刑を求める論調もよく見られるようになった。

このまま、裁判員制度が導入されると、何が起こるかは明白だ。日本の大衆の大部分は、好き嫌いの感情論でしか、物事の判断ができない。裁判員がランダムサンプリングで選ばれる以上、理性的な判断ができる人材が過半数を占めることはありえず、その判断結果は自分の好き嫌いの感情論だけに従ったものになるはずだ。それはそれで、制度としては意味があることではあるが、その結果は、法治主義への果敢な挑戦とも言えるものになることを忘れてはならない。



(07/10/12)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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