「勤勉」な日本人






日本の大衆といえば、その特徴は、なんといっても「甘え・無責任」な性格にある。そして「甘え・無責任」の追求のためには、所属する共同体との関係が重要なモノとなる。共同体とは、その中においては組織への甘えが許され、その外に対しては個々人の責任が曖昧になる集団である。かつては、共同体といえば「大家族」の共同体であった。そして40年体制下においては、企業や官庁といった、元来職能的集団であるべき組織が、共同体として機能した。

そして、この共同体の中と外という関係においては、「甘え・無責任」の追求は、全く相反する二つの動きを生じさせる。共同体の内側においては、個人のアイデンティティーと集団のアイデンティティーの間に、あえて垣根を設けず、曖昧に一体化させることで、自分のものは自分のものであると同時に、他人のものも自分のものとなる、極めていごごちの良い環境を創り出した。まさに、この中に埋もれている限りは、無限に甘えられる環境である。

だが、この基本は「相互依存」である。誰かが、特定の誰かに一方的に依存するような、君臣関係のようなヒエラルヒーは存在しない。そういう関係性が中長期的に安定しつづけるためには、極めて多くのリソースが必要とされるからである。大事なのは、ほどほど居心地のよい甘えが、半永久的に続くことである。そのため、誰かが度を外して相互依存関係を崩してしまわないような相互監視のシステムが、同時に共同体の中にビルトインされることになる。

このためのシステムとしては、「村八分」が代表的なものであろう。あるいは、古今東西あらゆる集団と同様、各種の「タブー」が設けられた。この相互監視システムにより、「抜け駆けをしない限りは、組織への甘えを享受できる」という、日本的な理想社会が構築可能になった。この共同体のタブーこそが、日本特有の「暗黙の了解」の原点である。同時に、そのタブーを守っているかどうかが、共同体の構成員かどうかを識別する「踏み絵」としても機能した。

この結果起こったコトとして、共同体の内部に於ては、主体的・能動的な行動をせず、組織への甘えを追求するものの、極めて従順で節制の効いた行動様式が生まれてきた。いわゆる「マジメで勤勉な日本人」のステレオタイプは、ここから生じたものだ。「共同体内部で、相互牽制が効いている」と、日本の大衆は「マジメで勤勉」になるのだ。もっとも、「甘え・無責任」が約束されている範囲で、というのがミソだが。

コレをウマく利用したのが、高度成長期の日本企業といえる。企業内部を擬似的な共同体とし、「寄らば大樹の陰」で甘えられる仕組みを作ることで、指示した範囲については「マジメで勤勉」な労働者を大量に抱え込む。これを元に、安い労賃で労働集約的な生産を行う。これは、ある種の相互監視機能を労働者間に構築し、最低限、横並びで仕事をさせる仕組みを作ったからこそ可能になったということができる。

しかし、この「相互監視機能」が効かなくなったときはどうなるか。それはまさに、共同体の外側での行動になる。共同体外では、甘えより無責任のほうが強く出る。文字通り「旅の恥はかき捨て」「鬼のいぬ間に洗濯」の世界、知っているヒトさえ見ていなければ、見ず知らずの他人がいようがお構いなし。自分勝手に、傍若無人の無責任な行動をとりまくることになる。見知らぬ他人は、そもそも甘えさせてくれる相手ではない。それなら、気を使う必要はない、ということである。

社会から共同体性が失われ、相互監視能力が消えてしまったとき、日本の社会はどうなるか。そういう状況下では、日本の大衆は、ウソとゴマかし、無責任のやり放題となるのは、火を見るより明らかだ。そういう意味では、昨今、いろいろなカタチで問題にされていることは、この相互監視能力の低下によるものなのだ。秩序とは、ある種の甘えである。甘えていたいのなら、共同体を再構築し、相互監視能力を高める必要がある。さもなくば、個々人が「自立・自己責任」で行動できる能力を持たねばならない。どちらを選ぶか。要は、単純なことなのだ。


(07/10/26)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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