「階層」を隠蔽したもの






先頃、文部科学省から全国学力調査の結果が発表された。各県別の成績の違い等に加え、生活習慣などについての質問に対する児童・生徒の回答と、平均正答率の間の相関関係についても発表されている。マーケティング等で、各エリア毎の生活者の実態を把握している人なら、いろいろな意味で理解しやすいし、納得できる結果なのだが、当の文部科学省はそうではないらしい。

勉強時間や塾通い等が成績と関連することについては、文字通り勉強をよくするかしないかということを定量的に把握しただけなので、それが成績と強い相関を持つことは、いわば当たり前である。よく勉強する子のほうが学力が高いというのは、明治この方、学校制度が始まって以来、どこでも見られたことである。さすがにこの問題については、文部科学省も素直に認めているところである。

問題なのは、「朝食を毎日食べているかどうか」とか、「テレビゲームやインターネットにのめり込むかどうか」といった生活態度に関する設問との相関である。文部科学省は、これらの生活態度に関する設問を原因、成績を結果として単純に捉えたいようだが、そうはいかない。現代日本の生活者の姿をキチンと捉えている人なら、これらの設問も、学力調査の成績も、どちらもある原因に対する結果として捉えるべき変数であることに、すぐ気がつくハズだ。

それは、家庭の生活環境である。言い換えれば「階級」といってもいい。世の中には、きちんきちんと時間を守ってメリハリのある生活をしている家庭と、だらだらと節目なくまったりとした生活をしている家庭がある。夜寝る時間や朝起きる時間、朝食をとるかどうかなどは、ほぼ、その家庭自体の生活がどうなっているかにより規定される。それは、言い換えれば、学力調査を受けた子供の親自体がどういう生活をしているかに他ならない。

三浦展氏のベストセラー、「下流社会」の調査を引用するまでもなく、所得が低く、生活レベルの低い人たちほど、テレビゲームやインターネットにのめり込んでいるのが、現代日本の生活者である。高所得者ほど、活発に各種レジャーを楽しむ分、「時間」がボトルネックになっている。その反面、低所得者では「時間つぶし」が目的化し、ローコストでなるべく多くの時間をつぶせるモノにハマる。その双璧が、テレビゲームやインターネットなのだ。

この両者をつなげてみれば、ことの本質は容易にわかる。生活意欲が低く、生活レベルも低い、低所得層の子供は、学習意欲も当然低く、成績も悪くなる。要は、これだけのことだ。もちろん、個別にみてゆけば、こういう階層出身でも勉強が好きでよくできる子供もいるだろう。だが、統計的に存在確率を問題にすれば、そういう子は他の階層より有意に少なく、成績の悪い子のほうが有意に多くなることは否定できない。

つまるところ、「出身階層と学習意欲には、強い相関がある」ということなのだ。地域と成績の関連に関しても、この因果関係を考えれば、容易に理解できる。民度の高い地域は成績がいいし、民度の低い地域は成績が悪いのだ。これは、ある種の生活実感とも共通する。変な理屈をつけるより、このほうがよほど庶民感覚として理解できる。これを認めないのは、官庁だけなのだ。

そういえば、仕事でつき合いのある社会学の先生からは、官庁の調査を引き受けたとき、結果にどういう処理をしても「階層差」が出てきてしまうにもかかわらず、それを報告書に載せることを一切認めなかったという話を、何度も聞いたことがある。官僚は、自分達が偏差値だけで成り上がり、育ちがよくないことを自己否定したいのだろうか。階層がないコトを立証することについては、半端でない熱意がある。

何のことはない。昨今、「階層化が進んだ」ワケではないのだ。日本には、高度成長期もバブル期も、歴然として階層差はあった。しかし、公式にはそれを認めない勢力が強かったために、そこには目をつぶり、比較的均質な指標だけがことさら取り上げられてきただけなのだ。そして、官から民への流れの中、そういう「こじつけ」が通用しなくなったからこそ、「階層」が論議されるようになっただけのことなのだ。


(07/11/02)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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