日本の進路






政界は、一層の混迷を深めているが、それには理由がある。日本の政治においては、長い間、本質的な価値観の対立軸が表に出ることなく、その時その時での、いわば場当たり的な政策対立が、議論のメインに据えられてきた。このため、政治を取り巻くジャーナリズムはもちろん、政治家自身も、本質的な対立軸がどこにあるかを見失うことが多かった。

本質的な対立軸とは、もちろん、「自立・自己責任」対「甘え・無責任」という構図である。この対立は、近世以降400年以上も続いていることになる。より政治に即していえば、「自立・自己責任」は「競争原理・小さな政府」を指向し、「甘え・無責任」は「利権・大きな政府」を指向する。この両者は、本質的なところで相容れない。それだけに、究極の対立軸となっている。

これは、表面的な政策対立を超えて存在してきた。たとえば冷戦時代は、政党間でイデオロギー的な対立があった。この時代「左翼革新政党」には、「甘え・無責任」な人たちしか集わなかったものの、「保守政党」には、一つの政党内にこの対立軸が持ち込まれていた。保守政党には「甘え・無責任」な人たちも多かったものの、「自立・自己責任」な人たちの多くを取り込んでいた。これが、この時代、保守政党が責任政党として政権を担い得た理由である。

その後、高度成長が進むと共に、寄るべき大樹は一段と大きくなり、「甘え・無責任」な人たちは、一段とその数を増す。この時代を代表する政治家こそ、田中角栄氏だろう。もともと「甘え・無責任」の権化で国家を喰いモノにしていた「官僚」と結び、利権極大化を政治の目標にした。この面から見ても、田中政治とは極めて社会主義的な色合いが濃いことが理解できる。その後70年代・80年代と、バブルに向かって、日本が「甘え・無責任」の天国となっていたことは言うまでもない。

まさに、「甘え・無責任」な無産者の天国を目指した「40年体制」の、政治的ゴールが「旧田中派的政治」であり、経済的ゴールがバブル経済だったのだ。確かに、旧田中派には官僚出身の政治家が多いのは象徴的である。そして、90年代に入って「40年体制」の破綻・崩壊が起こったにもかかわらず、それに変わるべき新たな対立軸が表に出てこないところに、今の政治の混迷の原因がある。

さて、この「自立・自己責任」対「甘え・無責任」という対立軸を前提にすれば、一見イデオロギー的に思える事象も、容易にその本質が理解できる。たとえば、外交である。「自立・自己責任」か「甘え・無責任」かという姿勢は、国家間の関係においても共通する。国際社会の中で「甘え・無責任」な存在でいようと思えば、当然、甘えるべき「どこかの大国」に追随することになる。それが米国だろうと、EUだろうと、中国だろうと、ロシアだろうとかまわない。

問題は、どの国に甘えるかではなく、国際社会の中で無責任で楽な立ち位置を取ろうとするところのほうにある。国際社会の中で、「自立・自己責任」な国を目指すのなら、当然、基本はどの国とも等距離の関係を結ぶことにある。もちろん、バランスをとる上で、短期的には、どこかの国と接近したり、同盟したり、ということはあろう。しかし、それはあくまでも「等距離」を保つための手段であって、「寄らば大樹の陰」の目的ではない。

また、タカ派かハト派かという問題も、ここに収斂する。国際社会で「自立・自己責任」を果たし、それなりの存在感を発揮するには、応分の責任負担が欠かせない。このためには、相応の軍備を持つ義務がある。その一方で、国際社会での貢献も含めて、甘えてスネをかじろうという立場なら、わざわざ軍備を持ち、それに見合った責任を果たすことなど、およそ考えられないということになる。

さてこの対立、数から言えば、日本人では「甘え・無責任」派が圧倒的に多数である。単純多数決で行けば、対立以前に決着がついてしまう。しかし、そうならないのが面白いところ。それには理由がある。最大のポイントは、「自立・自己責任」派には戦略やヴィジョンがあるのに対し、「甘え・無責任」派には語るべき内容がない点だ。少なくとも、「甘え・無責任」派は利権誘導しかアピールポイントがない。

したがって、がっぷり四つに組んでこの両者が戦えば、「数」対「策」として、それなりの好勝負になる。少なくとも、選挙ではそこそこいい戦いになるだろう。もうひとつのポイントは、「甘え・無責任」派だって、徹底的なバカではない点がある。「甘え・無責任」にするためには、すがる相手が必要になる。いわば、寄生生物は宿主がいなくては生きてゆけないようなものである。世の中、「甘え・無責任」派ばかりになってしまったら、そもそも甘えられなくなる。

この構造があるからこそ、「甘え・無責任」派は、宿主としての「自立・自己責任」派がいてもらわなくては困るという、「最後の弱み」を持っている。そして、その一線まで踏み越えるべきではないと思っている人も、「甘え・無責任」派には相当数いる。かくして、数的には圧倒的多数の「甘え・無責任」派とはいえ、それがそのまま選挙の結果とはなりえない。案ずるより生むが易し。一度やってみればいい。少なくともその結果は、今のような偽善の産物よりは、よほどマシなものであることだけは確かなのだから。


(07/11/09)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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