昭和と鉄道






去る10月14日の鉄道記念日、大宮にJRの鉄道博物館が開館し、「鉄道ブーム」が一斉に花開いた感がある。鉄道や鉄道模型を特集した雑誌やムックが、次々と書店で平積みにされるともに、テレビでも鉄道をテーマにした特番が組まれるなど、マスメディアには鉄道があふれている。民主党の前原副代表も、鉄道ファンであることを公表するなど、現役蒸気機関車を見たことのある世代を中心に、大きな盛り上がりを見せている。

一方で、この数年来の「昭和ブーム」も根強い。もっと広くとって、「レトロブーム」といってもよい。高度成長期とそれ以前の、「貧しくとも夢があった日本」へのあこがれは、その時代を実際に体験していない世代も含め、アトラクティブに映る。テーマパークやグッズ、食玩など、いろいろなところでレトロが受け入れられている。その頂点の一つが、ヒットした映画、「ALWAYS 三丁目の夕日・続三丁目の夕日」シリーズだろう。

この映画では、東京タワーや日本橋といった東京の景色とともに、鉄道風景が重要なシーンとなっている。常磐線のC62や、モハ20系こだま、旧塗色の都電など、要所に登場する列車や車輌が、ノスタルジーをかきたてる。もちろん、この映画の阿部プロデューサーが鉄道ファンということもあるのだが、それだけではない。昭和を語るのには、鉄道はなくてはならない。「鉄道ブーム」と「昭和ブーム」とは、同じ根っこを持つ、双子のノスタルジアだからだ。

まさに昭和とは、鉄道が日本を支え、そこに人々が夢とロマンを感じていた時代である。人々の目の前にも、心の中にも、常に鉄道があった。たとえば、歌謡曲。津軽海峡冬景色は、上野発の夜行列車から青函連絡船に乗り換えるからこそ唄になる。小説でもそうだ。松本清張氏のミステリーは、鉄道だからこそスリリングになる。長距離バスや飛行機では味気ない。映画でも、寅さんが鉄道で全国を旅しなくては、男はつらいよシリーズも長続きしなかったろう。

日本の鉄道自体は、明治5年に、新橋・横浜間が開通して以来、140年になんなんとする歴史を持っている。しかし、我々が思い浮かべる日本の鉄道の黄金期の姿が出来上がったのは、そう古いことではない。実は、日本の鉄道の歴史のかなりの部分が、昭和の歴史と重なっている。単にノスタルジックなイメージだけではなく、実際にも、鉄道と昭和は不可分の関係にある。鉄道の歴史は昭和の歴史であり、昭和の歴史は鉄道の歴史なのだ。

相次ぐ赤字線の廃止や第三セクター化で、今ではかなり縮小されてしまったが、旧国鉄の最盛期の路線網は、大正14年に制定された「鉄道敷設法」に基づいて建設されたものだ。大正期には、標準軌への改軌論が盛んであった。このため、まず既存の幹線を標準軌に改軌するという「改主建従」論と、狭軌のままで良いから新線の敷設を進めるという「建主改従」とが激しく対立していた。それが、狭軌のままで、路線建設を進めることで決着したのが「鉄道敷設法」だ。

これにより、昭和に入ると共に、鉄道建設ブームが起こった。上越線をはじめ、幹線の中にも、昭和になってから建設された路線は多い。それと共に、鉄道建設が政治の道具として使われる現象も起こった。時はまさに、大正デモクラシーの流れの中、普通選挙法の施行とともに、民政党・政友会の二大政党対立が起こる。この中から、選挙民の支持を得ようと、当然のように、おらが選挙区に鉄道を敷く「我田引鉄」が利権としてクローズアップされた。

一方、鉄道において顧客サービスという面がクローズアップされたのも、昭和に入ってからである。日本のネームドトレインの嚆矢は、昭和4年の特急富士、特急桜だ。その後超特急燕が生まれるとともに、スピードアップも重視されるようになり、昭和9年には丹那トンネルが開通した。その後太平洋戦争を挟むものの、昭和33年には電車特急こだまが登場する。在来線の東海道本線が花形だったのも、そののちわずか6年。昭和39年には東海道新幹線が開通し、ついに日本の幹線は標準軌となる時代を迎える。

そしてその後、旧国鉄が民営化され、JRが誕生するのも、昭和62年。すべて、昭和の時代の中の出来事なのだ。鉄道博物館に行くと、子供や鉄道ファンだけでなく、一般の中高年のカップルも目立つ。そ憂いった皆さんは、鉄道というだけでなく、昭和レトロのテーマパークとして、鉄道博物館を楽しんでいる。まさに、昭和と鉄道は、切り離せない車の両輪として、人々の心の中にある。そうであるなら、このブーム、まだまだ息が長くなるだろう。



(07/11/30)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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