無責任な宗教






日本人と宗教を語るときには、一神教的な教義を持った宗教との対比で、アニミズムとしての八百万の神が特徴として語られることが多い。万物に精神性を見出してしまう「八百万の神」こそ、日本人の宗教観、信仰観の原点である。この結果、日本の土着的宗教観は、来世を前提とせず、極めて現世肯定的なモノとなっている。神となって土地と結びついた先祖の供養さえきちんとすれば、何も恐れるモノはない。いつでも困ったときには、祖先が見守って、助けてくれるのだ。

これは多分に、日本列島の風土的特性とも結びついている考えかただろう。土地の生産性の高さと、環境の住みやすさ。縄文人の生活を例にひくまでもなく、森に行けば果実や木の実が豊富になっている。確かに熱帯に行けばもっと豊富に生えているが、日本の気候はそれより各段に過ごしやすい。また海や川の魚も豊富な上、捕獲しやすい小動物も多い。そんなに苦労しなくても、そんなに我慢しなくても、のほほんと暮らしてゆける土地柄なのだ。

そういう環境で生活していれば、「現実こそ最高」とならざるを得ない。また、農地や水利の開発といった、集約的な農業生産が起こらない段階なら、適切な間隔をとって棲み分けてさえいれば、周りとのコンフリクトも起きにくい。かくして神様は、日常的に何らかの精神的支柱となるのではなく、文字通り「困ったときの神頼み」として、やっかいなこと、面倒なことをすっきりと解決してくれる、極めて「都合のいい」存在として敬われることになった。

元来、世界宗教においては、来世で救われるためには、現世におけるなんらかの努力を必要とするところに特徴がある。それが、極めて宗教的な修行や寄進そのものなのか、現世で与えられた試練に対し、現実社会の中で耐えて頑張る行動なのか、時代や宗派によって必要とされる中身に違いがあるものの、努力の必要性そのものに関しては、全く共通している。世界で広く信仰されている宗教とは、努力して苦労や我慢をするためのシステムなのだ。

この結果、社会を律し、良い方向へ向上させようとする「ガバナンス」が働く。我慢したり、耐えたりするモチベーションとなるからこそ、宗教は社会的に存在する意味がある。世界宗教は、その多くが生活環境が厳しい南アジアや西アジアで生まれた。現世に生まれたこと自体、現世を生きてゆくこと自体が、苦痛であり努力を必要とする行為である。だからこそ、来世で救われるという希望がなくてはやっていけない。

ところが、日本人の宗教観は全く逆なのだ。ご先祖様は、自分にとって都合のいいコトをかなえてくれる、いわば赤ちゃんの頃の両親のような存在である。何よりも、自分の親や祖父母、その延長上にある祖先は、「甘え」て「すがる」べき対象なのだ。その御威光におすがりすれば、無理難題も都合よく解決。自分にとって利益となることが、他人にとって不利益だったり、社会的に問題があっても、ご先祖様はよきに計らってくれる。

そもそも、祖先は自分からすれば「身内」である。「自分に都合の悪い思し召し」を、与えようはずもない。これでは親族だけで固めた同族会社のようなもので、システム的にみれば、自律的なガバナンスが働かない組織である。もちろん、それでも個々の成員が自ら規律正しく行動すれば、組織をキチンと動かすことはできる。しかし、構成員のほとんどが、「甘え・無責任」な人々なのだ。

日本の庶民層に対しては、歴史的に見て、世界宗教の布教がほとんど成功していない。広まったのは、中国に入って道教的思想に感化され、現世御利益志向の宗教となった大乗仏教だけである。それも、日本に入ってくると、さらに現状肯定的な色合いを強めている。そもそも世界宗教は、苦労や我慢を正当化し、それを評価するためのシステムである。ところが日本の社会では、いにしえから、あえて苦労や我慢をする理由がない。

明治憲政体制が、日本における擬似宗教たることを目指したことはよく知られている。しかし、そこでも「日本的宗教観」は貫徹してしまった。すなわち、擬似宗教としての明治憲政体制も、極めて現世利益指向が強く、来世を考え、人々にガバナンスを働かせるようなものではなかった。これが20世紀の大衆社会化の波の中で、明治憲政体制があっさりと「無責任のシステム」に変質してしまった最大の理由である。その意味でも、社会に宗教的ガバナンスをどう効かせるかこそ、これからの日本を考える最大のポイントといえるだろう。。



(07/12/14)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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