情報社会の人間力






かつて20世紀前半までの社会においては、情報処理はすべて人間系に頼る必要があった。大晦日まで営業している銀行では、手作業で記入した帳簿と、実際に金庫にある現金と、最後の一円が一致するまで人海戦術でチェックするため、仕事にケリをつけるには、紅白歌合戦がフィナーレを迎えそうになるまでかかった、などという話もよく聞いた。当然、それをこなすための事務系の要員も、極めて多数が必要になっていた。

それは、労働集約的に事務作業をこなす人材と、それを指揮監督し作業を機能的に実施する人材の、どちらの面でも求められた。この傾向は、日本においては、最初に官庁を運営するシステムとして登場した。それが、一般化し民間企業においても取り入れられた。この人間系システムは、製造現場で労賃のコストパフォーマンスを生かした労働集約的生産が行われたのと同様、その後も高度成長期まで続き、「日本的経営」の基盤のひとつとなった。

そこでは、前者の作業が、主として高卒の女性によって担われる一方、後者が、大卒の男性によって担われた。この後者の人材の理想系とされたのが、「秀才型人間」である。もともと、求められていることが、今ではコンピュータで処理されているような情報処理である。所定の目的と、決められたプロセスを前提に、それをいかに手際よく、スマートにこなせるか。これは、コンピュータでいえば、CPUのクロックと、メモリの容量の勝負である。

秀才とは、高速CPUと、大容量のメモリ・ハードディスクの載っているパソコンのようなものである。まさに、今、コンピュータがやっているコトを、手作業でやっていたのだから、これは比喩どころではない。膨大に増える事務処理を、同じリソースの中でこなすためには、高性能な情報処理機能が求められるのは、今も昔も変わらない。今ならそれを、マシンの機能向上で対応するが、かつては、そういう能力に長けた人材に頼らざるを得なかったのだ。

最近、官庁の職務怠慢や、官僚の不祥事が頻発している。民間でも、ガバナンスの効かない組織では、問題が噴出している。これらは、すでに存在意味のない、人間系情報処理のために特化した組織構造が、その後も解体されることなく残り、その組織の維持・防衛自体が、自己目的化してしまったために起こる。もっとはっきりいえば、所定の目的と、決められたプロセスがなくなったとき、秀才型人間は「糸の切れた凧」になってしまうということだ。

では、どういう人間が求められるのか。芸術などの創作領域や、スポーツなどの分野で活躍する、天賦の才能を持った「天才」が重要になる、というのは誰にでもわかる。しかし、そうではない、一般的な組織で求められる人材がどのようなものかについては、あまり語られることがない。これは、いかに現状の組織が旧態依然としているといっても、いや、旧態依然としているがゆえに既得権者が多く、開き直って「篭城」している状態にあるからだ。

とはいえ、今後の社会を考えてゆく上では、外すことはできない。これを考えるためには、今後の日本社会における組織のあり方をまず考える必要がある。そもそも、今後の日本においては、「右肩上がり」は期待できない。少子高齢化・人口減少はよく言われるが、そもそも長年のハコモノ行政で、社会インフラは充分すぎるくらい過剰にある。これ以上成長しても、無駄を増やし、環境に負荷をかけるだけなのだ。すなわち、安定・縮小傾向の中でも、いかに幸せな社会を作るかが重要になる。

このポイントは、「足るを知って、高望みせず、分相応の生きかたが一番幸せ」であることになる。つまり、これからの組織でガバナンスを発揮すべき人材は、誰よりも先に、この「知足」を身に着けていなくてはいけないのだ。ところが、こういう「奥ゆかしさ」は、学校教育のような知識として身につけられるものではない。育ちの中で、自然に身に着けるしか、獲得する方法がない能力である。いわばミームとして、環境のなかで、親や先祖から脈々と伝えられるものなのだ。「知足」の能力は、後天的に得られるものではない。そこには、育ちによる決定的な差がある。

ある意味、これを当然のコトとして受け入れること自体が、「足るを知って、高望みをしない」ことの第一歩ともいえる。右肩上がりの高度成長に支えられた産業社会の時代においては、知識が重要であり、教育システムがものをいった。安定成長がベースとなる情報社会においては、謙虚な心が重要であり、育ちがカギとなる。よく考えれば、やはり安定成長がベースだった中世においては、そうだったではないか。そっちのほうこそ、人間らしい生きかたの原点ともいえるだろう。



(07/12/21)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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