悟るヒト






人間、生きていくうちにはいろいろなことが起こる。予期せぬ幸運もあれば、予期せぬ不運もある。自分の努力ではどうにもならない、「運命」も多い。そういうことが起きるたびに、一喜一憂し、喜び、怒り、感情を高ぶらせるヒトが多い。特に1980年代以降の安定成長期に入ると、日本社会ではその傾向が強くなった。何でも裁判に持ち込む「訴訟ブーム」も、その一環とみることができる。

しかし、そういう他人への責任転嫁は、決してハッピーエンドをもたらさない。事実は事実、現実は現実。起こったコトを淡々と受け入れられる心を持つことが、本当に豊かな生活を送るためには必要である。表面的な幸せも不幸も、あるがままを受け入れ、高望みも、悔やみもしないこと。これができれば、常に清い心を持ち続けることができる。そもそも現状に不満を持っているからこそ、思い通りにならないことに対して、反発し、不平不満を並べるのだ。

高望みには、キリがない。より高いもの、より大きいものを望みだしたが最後、決して満足の得られない、終わりのないいたちごっこが待っているだけだ。規模というのは、青天井。上方に限界がない。ここでオシマイ、というゴールは設定されていない。もしゴールがあるとするならば、それは自分で設定するしかない。自分で満足の基準をもてないヒトが、成長を望み出したら、そこには無間地獄しかないのだ。

「それ三界はただ心一つなりけり」ではないが、ある状況を、受け入れるか受け入れないか、いいと思うか不満に思うか、という境目は、社会の側ではなく、当人の内面にある。他人と比べてどうか、客観的にどうかではなく、自分がそれを納得できるか、自分がそれに耐えられるか、の問題である。自分の中に不満足な気分がなければ、怒りも、反発も起こらない。どんなに辛いコトが起ころうと、それに耐えることはできる。

こと日本においては、この20年ほどの傾向として、価値観が極めて主観的なものとなってきたことがあげられる。団塊世代以上の層においては、社会的な価値観軸を判断のよりどころとするヒトがほとんどなのに対し(もっとも、その軸の右が左かという選び方の違いはあるが)、40代以下の層では、価値判断の基本は自分が好きか嫌いか、楽しいか楽しくないかというところにある。

この話を詳しく始めるとキリがないのだが、ここでは、そういう事実があるコトだけに触れておく。事実は事実として、その功罪もいろいろあるとは思うが、こと、悟りを開き、足るを知ることにおいては、これはかなりプラスである。団塊世代のように、「隣の芝は青い」と、いつも周りと比較して自分を評価しなくても、自分が自分として状況を好きか楽しいかという基準だけで、受け入れることができてしまうためだ。

現状のM1層における、ワーキングプアに代表される「下流化」の問題がよく取り上げられる。有識者やマスコミが、眉間に皺を寄せて喧々諤々批評するワリには、当の本人たちには、それほど切実な問題意識はない。それより、自分の現状を淡々と受け入れ納得しているようにも見える。これもまた、価値判断基準が自分の内側にあるからである。「みんな下流なら、下流も決して悪くない」と納得できれば、それに安住できるのだ。

大事なのは、自分で現状に満足し、これでいいと、自分で自分を納得させる力である。これを持っているヒトは、どんな状況でも幸せになれる。たとえ、今この瞬間に自己で死んでしまったとしても、死ぬことが幸せと感じられるのだ。これが悟りである。もちろん、誰もがこの境地に達せるものではない。しかし、世の中には、「悟ったヒト」と「欲に囚われたヒト」の二種類がいることは忘れてはならない。そのどちらを選ぶかは、個人の自由であるが、自分がどちらかを知る必要はある。

欲に目がくらんで大衆が自滅しても、所詮は自業自得だ。その結果、大衆国家としての民主主義に基づく国民国家が滅びても、これまた自己責任である。別に、目くじら立てることでも、力の限り棹を差すことでもない。問題なのは、大衆が数を頼りに、すでに悟りをひらいているヒトまで道連れにしようとすることだ。とばっちりが飛び火してこないのなら、何をやろうと、そいつらの勝手だ。しかし、ツケが回ってくるとあっては、そうはいかない。問題は、この一点なのだ。



(07/12/28)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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