江戸の粋






日本の近・現代史を語るには、日本という国の内部の問題だけから説き起こすことはできない。19世紀から20世紀にかけては、真の意味でのグローバリズムが起こりはじめた時代であり、どのような史観に立とうとも、「世界情勢の中での日本」を無視することはできない。明治維新も、幾多の戦争も、すべて国際的な動きが日本に影響して起こったことなのだ。日本内部の経済発展段階だけで変化が語れるものでもなければ、英雄や偉人の出現に、その要因を求められるものでもない。

この頃の世界は、産業革命の生産力をバックに、先進技術に支えられた軍事力の優位性を駆使して、西欧列強諸国が世界各地を植民地化する帝国主義全盛の時代であった。その特徴は、それまでの重商主義的な進出とは違い、国や民族の存亡を賭けた喰うか喰われるかの争いが繰り広げられる点にある。侵略されたアジアやアフリカの国々が「勝たなければ滅亡あるのみ」なのは当然としても、侵略する側の列強もまた相互に競争し、「勝たなければ滅亡あるのみ」であった

いわば、世界をリングとしたバトルロイヤル状態である。当時の日本は、好むと好まざるとにかかわらず、いやおうなくその嵐の中に投げ込まれた。「勝つこと」を宿命付けられたリングに上げられてしまった以上、勝たなくてはいけない。明治以降、昭和までの日本の歴史を語るには、まずこの「外圧」があったことを前提に考える必要がある。19世紀までの世界とは違い、自分では道を選べなくなっていた。

そんな中で「勝つ」、すなわち帝国主義の時代を乗り切り、植民地化の危機を脱するためには、西欧列強と同様の、「近代産業社会」の論理と価値観を取り入れる必要があった。他人が決めたルールであっても、それに合わせなくては勝てないし、生き残れなかったのだ。その結果、経済も人口も右肩上がりとなり、成長を遂げた。その絶対的価値としての是非はさておき、世界史の中で生き残るための手段としては、他に選択肢はなかった。

少なくとも、外側から押し付けられたルールであっても、それを自家篭中のモノとし、結果的に成果を残したことは事実である。その部分に関しては、創発的には評価しうるものである。しかしここで忘れてはならないのは、それは本来の日本のカタチではないということである。それは、生き残るために、とらなくてはならなかったカタチである。そして、その不自然な姿こそ、我々が生まれ育ってきた、現代日本の正体なのだ。

本来の日本のあり方が貫徹できたのは、江戸時代までである。それも18世紀までの江戸時代に限られる。この時代の日本は、3000万人の人口を抱え、エコロジカルな再生産型社会で、基本的には自給していた。そう考えると、このレベルの人口、このレベルの経済規模が、日本列島には元来適正ということになる。ここで重要なのは、そのような「日本の原点の最終形」といえる江戸時代の社会が、決して貧しい社会ではなく、極めて文化的な社会であった点だ。

この時代の日本文化が輸出され、ヨーロッパに「ジャポニズム」のブームを巻き起こしたことがそれを示している。庶民の大衆消費文化をベースとした、江戸時代の日本文化の移入がそれまでのヨーロッパ文化の基調だった貴族文化に代わり、合理的でマスの支持をベースとするモダニズムを生み出す原動力ともなった。この事実からもわかるように、江戸時代の日本は、世界的に見ても豊かな文化が花開いた、高度に発展した社会でもあった。

もちろん、そのジャポニズムの発生自体が示すように、鎖国の時代も世界との密接な連携はあった。必需品の生産については国内で閉じているものの、文化や嗜好品については、世界経済の中に組み込まれ、常に連係が取れていた。だからこそ、19世紀に入ると、否応なく西欧の価値体系の中に組み込まれることになるのだが、ここにこそ、これからの日本を考える重要なヒントが潜んでいる。

生活必需品の自給と、文化の輸出。この両立ができたポイントは、「知足」にある。人々が高望みをせず、現状で満足することを知っていたからこそ、高度に発達した独自の大衆文化を築くことができたのだ。元来の日本は、右肩上がりのあくなき高度成長を求める国ではない。現状を現状のまま、ありがたく受け取れるカルチャーを持った国だったのだ。今の日本社会の持つ閉塞感は、西欧起源の成長神話が、本来の日本らしさとの間で自家中毒を起こしている状況とも言える。

元来の日本社会の再構築、江戸時代的な社会の復活には、人々が「足るを知る」ことがカギなのだ。これができれば、自給ベースの文化的な社会を再現できる。幸い、日本はこれから人口が減少するという。それならば、江戸時代のような社会をゴールに定め、そこへ向かって進むべきではないか。右肩下がりも、理想的な社会構築のためのステップと考えれば、何も恐くはない。これからの日本人にとって一番大事なのは、足るを知り、今の自分で満足することなのだ。



(08/01/11)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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