デザインへの視線






昨今日本のメーカーにおいても、生活者にとっては機能や性能以上にデザインが差別化のポイントとなることが認識されるようになり、戦略的に「デザイン重視」が叫ばれるようになった。まだまだハード先行型の企業も多いが、遅ればせながらソフト面も付加価値として捉えられるようになった点は、積極的に評価すべきであろう。ハードを作るのが「モノ作り」であり、ソフト面もクリエイトしてはじめて「もの創り」になる。

とはいえ、デザインというのは一筋縄ではいかない。いいデザインを見抜くには「審美眼」が必要であり、これは一朝一夕にやしなえるものではないとともに、勉強や教育で対処できるものでもないからだ。いくら「デザイン指向」を目指したとしても、日本のメーカーには、「デザインの目利き」がほとんどいない。この結果起きているのが、「いいデザイン」と「変わったデザイン」の混同である。

ソフト的な付加価値を求めるデザイン指向とは、「いいデザイン」の追求でなくてはいけない。しかし、「いいデザイン」を見抜けるヒトは少ない。この結果起こるのが、ユニークなデザイン、オリジナリティーのあるデザインであれば即OKという、歪んだデザイン戦略である。ユニークさやオリジナリティーは、確かにいいデザインの前提条件であるが、必要充分条件ではない。ある意味で予備審査にはなるだろうが、この条件だけではいいデザインを選ぶことはできない。

ユニークさやオリジナリティーにあふれた作品の多くは、単に「変わったデザイン」というだけである。いいデザインの作品は、そのごく一部にすぎない。ここで勝ち残るほうが大変なのだ。その一方で、ユニークさやオリジナリティーだけを評価することは、類似のものをたくさん並べて統計的に処理すれば、誰にでも可能である。結果的に、単に「変わったデザイン」「目立つデザイン」の製品が、「デザイン指向」と呼ばれることになる。

その一方で、「いいデザイン」は概してブームになりにくいという傾向がある。その製品がいいデザインなら、ロングセラーになり、結果的には大きなマーケットとなるだろう。しかし、瞬間風速的な大ヒットをもたらす「大衆ウケ」はしにくいのだ。そもそも、コト日本社会においては、大衆には審美眼はないのだから、マスに支持されることと、いいデザインであることはイコールではない。これも、シェア主義にひたってきた日本のメーカーがいいデザインを追求できない理由のひとつである。

では、「いいデザイン」を見切る審美眼は、どうやれば鍛えられるのか。それは、ひとえにその人間が育った環境に依存する。いいモノ、ホンモノに囲まれて育てば、おのずと審美眼は育つ。その反対に、チープでフェイクなものばかり見ていたヒトには、ホンモノはわからない。いいモノでも、フェイクなモノでも、機能や性能には差がない。だからフェイクなモノばかり接していると、そういう定量的評価でしかモノが見れなくなり、フェイクで満足するようになる。

いいモノかどうかの判断基準は、実はその先にある。いいモノかどうかは、定量的には判断ができない、心の問題なのだ。そして世の中には、審美眼があるヒトと、審美眼がないヒトの二種類がある。これについては、努力でどうこうできる問題ではない。いくらキャッシュフローが潤沢でも、育ちが悪ければ「成金」にしかならない。「成金」の人たちが概して趣味が悪いのは、審美眼がないのに、金だけは持っているからだ。

もし、成功し豊かになったヒトが、心まで豊かになろうと思ったらどうすればいいか。それにはまず、自分でそのカネを消費せず、子孫に伝えるストックとする必要がある。そのストックを子々孫々守り、増やしていくことができれば、三代目ぐらいからは、それなりに心の豊かさも生まれてくる。ここまできてはじめて、審美眼を持つ前提条件が揃ってくる。審美眼には、このくらいのストイックさが必要なのだ。

こう考えると、ヨーロッパにおいては、審美眼に長けたヒトが多い理由も分かる。欧州は、今でも階級社会であり、貴族的な生活が残っているからだ。結果、いいデザインが生まれ、評価される土壌も整うことになる。日本においても、元来、上流階級は存在したし、実はその影響は今でも続いている。本当にデザイン指向を目指すのなら、こういう人たちの活用がカギになる。そう思って見ると、デザインセンスのいいメーカーほど、育ちのいいヒトが多い。いいデザインは、大衆社会からは生まれないのだ。


(08/01/18)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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