悪いのはどっち






昨年来、数々の「偽装」が話題となっている中、製紙業界が紙製品に混入する「古紙」の比率を偽装していたことが話題となっている。しかしよく考えると、この「偽装」は、賞味期限の偽装や、原料産地の偽装とは、根本的に違う構造を持っている。それは、今まで問題となった「偽装」が、「付加価値が低いものを、高いものと偽る」モノだったのに対し、今回の古紙偽装は、「付加価値が高いものを、低いものと偽る」構造である点だ。

厳密に言えば、どちらも「表示と内容が違う」という点においては共通かもしれない。しかし、偽装のウソを問題とするのが、消費者を守るためのものであるなら、この両者は質的に大きく違う。付加価値が低いものを、付加価値が高いものとして買わせるというのは、ある種の詐欺である。これにより、消費者は明らかに損をするワケであり、被害を受けるワケである。これを組織的・計画的に行うというのは、犯罪性がある。

しかし、付加価値が高いものを、低いものとして買わせるのであれば、消費者は損するワケではないし、被害を受けるわけでもない。それどころか、ある種の「お得なサービス」である可能性も高い。マグロの「中トロ」を注文したのに、どう見ても「赤身」が出てきたのでは、みんな怒るだろう。しかし、「赤身」を注文して「中トロ」が出てくる分には、怒るどころか、ラッキーと思うヒトもおおいだろう。

もっとも、コレステロールとかの問題で、脂肪の摂取を制限されているヒトもいるので、表示と内容が一致するに越したことはない。しかし、表示>内容という「下方への誤差」には厳しいが、表示<内容という「上方への誤差」には甘いというのが、一般的な心情である。それをあげつらうかのように、「上方への誤差」にも目くじらを立てるというのは、余程杓子定規の変人ということになる。

では、何で今回、この「偽装」が問題になったのか。それは、硬直した「官」の調達が絡んでいるからだ。「官」においては、法律でリサイクル紙の利用を義務付け、その中で古紙の含有率を規定してしまっている。それに反する紙を納入したから問題だ、というのが今回の経緯である。よく考えれば、これは本末転倒だ。リサイクルやエコロジーは大事ではあるが、それは法律で規定するものではない。

そもそもパルプの利用という面で見れば、古紙のリサイクルはエコロジカルだが、パルプの再生に必要なエネルギーやCO2の排出という面で見れば、必ずしもエコロジカルとは言い切れない。原木や代替植物原料から新しいパルプを作ったほうが、結果的に環境負荷が小さい場合も多い。そういう意味では、コストと需給が連動した市場の動向に任せてこそ、結果的に環境負荷についても最適化が実現されることになる。

また、限られた税金を活用するという面から考えても、こういう法律による規定は問題がある。古紙リサイクルした紙製品は、高エネルギー消費になっているコトを反映して、日本においては、新しい紙より価格が高めになっている。官僚は「税金は天下の回り物」と考えているから、コスト意識がないが、納税者からすれば、なんでその分高い税金を納めなくてはならないのか、ということになる。

これが民間であれば、使う意味のあるところでは、リサイクル製品を利用するものの、何でもかんでも一律、ということにならない。リサイクルのほうが、より大きい目で考えてコスト削減になり、環境負荷も小さくなってはじめて使う意味があるからだ。また、リサイクル製品でも、その古紙含有率を一定の基準で決めてしまうということはない。これらについては、市場原理の中で全体最適を図ってゆくべきものだからだ。

「表示と内容が違う」コトに関しては、問題がないとはいわない。しかし、今回の事件で最も問題にすべき点は、「官」の杓子定規な規定が、大いなる無駄を生み出していることである。「偽装」というならば、コストや効率を考えないで、湯水のごとく税金を消費する、「官」の予算の仕組み自体のほうが、よほど偽装である。それ以上に、そもそも必要ない業務も、さも受益者がいるように見せかけて、既得権化する今の官の仕組み自体が、なにより偽装というべきなのだが。


(08/01/25)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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