超大衆社会の「掟」






大阪府の知事選挙で、タレント弁護士の橋下氏が、圧倒的な大差で勝利した。ある種、結果自体は最初から読めすぎる状況だったワケだが、その事実に全く気付かないか、あるいは無視してしまうところに、今の政治なりジャーナリズムなりの構造的問題点が存在する。選挙で重要なのは、政策でも、政治の実行力でもなく、「その候補が勝つと面白い」かどうかだけである。

どう見たって、民主党の押す熊谷候補は面白くない。共産党の梅田候補はもっと面白くない。これでは、そもそも勝負にならない。レスリング対柔道ならまだ試合になるが、同じ「道」でも、レスリング対書道では試合にならないようなものだ。この傾向は、小泉首相の「劇場政治」の頃から顕著になったが、東国原知事の当選も、この前の参議院選挙での民主党の躍進も、みんな理由を問えば、そういうことになる。

今の世の中、基本的な選択肢は、楽しいか、面白いか、好きか、というような、極めて主観的・気分的なポイントがカギとなっている。社会的に正しいかどうかとか、スジが通っているかどうかといった判断基準はありえない。それが、世の中の事実である。そして、選挙もまた、その例に漏れないというだけのことだ。政治だから、選挙だからといって、別の判断はしないのである。

そういう意味では、橋下氏が熊谷氏より「面白い」と、有権者から支持されたコトは事実だが、別に自民党・公明党という与党連合が支持されたワケでも、民主党が支持されなかったワケでもない。こういうレベルの相手なら、橋下氏は、民主党が支持したとしても、どの政党も支持しなかったとしても、同じような結果となり当選していたハズである。

この傾向は、一朝一夕に始まったものではない。「社会的に正しい」モノより、「個人的に面白い」モノを選ぶ傾向は、昭和30年代以降に生まれた層においては、すでに若い頃から顕著に見られた傾向である。そういう層が社会のマジョリティーとなり、結果として社会通念となっただけのことでしかない。昨今の「ジャーナリズム離れ」も、根っこは同じである。

その事実を捉えて、どう判断するかはさておき、まず「事実を事実として」受け入れることが、今という時代を理解するためには重要である。それが良いのか悪いのかといった価値判断と、現実の世の中がどうなっているかは、全く関係ない。ところが、アカデミズムやジャーナリズムの人たちは、この区別ができない。よって、自分達の価値観と違う大衆の行動を受け入れようとしない。

日本は、民主主義の世の中である。民主主義においては、多数決の結果が選択される。そういうシステムを採用してしまった以上、日本の大衆が思うところが、そのまま日本の進路になるのは、必然の結果である。そして、大衆は極めて主観的・気分的にしか判断しない。大衆に選んでもらうためには、大衆が面白いと思ってくれなくてはならない。これは、価値観以前の「基本ルール」である。

大衆の主観や気分が全てを決定する、「超大衆社会」に日本がなっている以上、選択肢は二つしかない。民主主義のルールを尊重し、超大衆社会を是認するか。そもそも民主主義のルール自体を見直し、大衆の主観や気分に左右されない社会を目指すか。民主主義を是認しつつ、大衆の価値観と違う選択をすべきだという主張は、論理的に成り立ち得ない。しかし、実際上そう主張しているのが、アカデミズムやジャーナリズムの人たちではないか。

とはいえ、今の世界の中で、民主主義を否定することはできない。そうなると、結論は一つ。いま大事なのは、ありのままの世の中を見て、現実を素直に受け入れることである。大衆が好きなこと、楽しいこと、面白がることを提供できさえすれば、それはそのまま受け入れられる。そうでないことを、いくら声高に叫んだところで、誰も聞かない自己満足に終わってしまう。大衆に棹は刺せない。この掟を理解することが、今の日本を理解することになる。


(08/02/01)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる