改革の好機






こと日本においては、企業が抜本的な改革を行うのは、景気がすぐれず業績も悪い時期が多い。右肩上がりで成長しているときは、多少の問題でも、良い数字の前にかき消されてしまうため、構造改革を行おうという気も起きない。これは、そもそも日本の企業には「無責任組織」のところが多く、強いリーダーシップを誰も発揮しなくても、それなりに「転がってゆく」のが、ガバナンスの基本となっていたことによる。

ウマくいっているのに、あえて労力をかけて改革しようなどということは、「甘え・無責任」な一般的な日本の企業人にとっては、思いもよらないことなのだ。こういう時期においては、リーダーシップを発揮しないことがなにより無責任でいられる秘訣だからである。しかし、一旦業績が悪化しだすと、状況は一変する。悪い業績が周知の事実となると、そこに「責任」が発生する。業績が悪くなったのには、それなりの原因がある。そして、それは誰かの責任なのだ。

こうなると、責任のババ抜きゲームが始まる。何もしないでいると、責任というババを押し付けられてしまう。つまり、無責任でいるためには、何もしないという選択はないのだ。ここでは、自分が無責任であるために、先に「責任のタネ」をつぶしておこうというモチベーションが働く。かくして、業績が悪くなると、責任を問われる前に改革してしまおう、ということになる。こういう時期に限って改革が進む裏には、日本企業特有のこういう構造が秘められている。

さて昨今、政治の世界でも、大きい政府でバラ撒き・利権誘導型の政治家がまた脚光を浴びつつある。こういう考えかたは、保守政治家の中でも「リベラル」と呼ばれる人たちや、かつて革新政党といわれた社会主義系思想を持った政治家に多いものである。また、この考えかたは、官僚たちにも共通している。要は親方日の丸で、国には無尽蔵に金があるから、使うだけ使ってしまえという考えかたである。

これは、日本が旧来のバラ撒き・利権誘導型の行政を脱し、ある程度改革が進んだからこそ現れた現象である。公共事業や社会福祉の名を借り、湯水のごとくあふれていた行政の支出が少しづつ絞られ、デカい声を出さないとおいしい汁を吸えなくなってきた。だからこそ、恥も外聞もなく「スネを齧らせろ」と叫ぶ人が増える。そして、政治家もそういう人たちをバックに票を集めることができる。

それでも企業の改革と同じで、景気が右肩上がりで回っている間は、そんなホンネを語るヒトはいなかった。だからこそ、実態はどうあれ、タテマエとしては正当な、「改革」を主張する政治家がもてはやされ、票になっていた。しかし、サブプライム問題以降のアメリカの景気後退の中で、日本の景気も足踏み状態となると、そんなタテマエを肯定している余裕もなくなったという次第である。

しかし、これは決して悪いことではない。新古典派的な改革を、多くの日本人が支持するということほうが、なんとも異常なのだ。「自立・自己責任」な日本人は、多くとも全体の1/3。残りの2/3は、ホンネでは「甘え・無責任」が好きな人たちである。厳密に言えば、この半分、すなわち全体の1/3が、ゴリゴリの筋金入り「甘え・無責任」。残りの1/3が、心情的「甘え・無責任」という構成である。

「甘え・無責任」で、ほんとは大きな政府が好きなヒトも、面白がって支持してしまったというのが、小泉劇場政治の本質である。そして、それが理解や納得に基づくものでない以上、小泉流の改革では、真の構造改革をなしえないことも事実である。真の構造改革を実現するためには、1/3の「自立・自己責任」な新古典派と、1/3の「甘え・無責任」なリベラル派が対立し、残りの1/3の心情派を取り合う構図が実現しなくてはならない。

そう考えれば、隠れ「甘え・無責任」が、リベラルや福祉の名の元に、カムアウトし出した状況は、真の改革に対してポジティブなものと見ることができる。そう、真の改革を実現するカギとは、政界再編である。「自立・自己責任」か、「甘え・無責任」か。あらゆる政策の根本にある、この対立構造を軸に二大政党が結集し、その間に、心情と現実の狭間にゆれる層がキャスティングボートを握る。

この構造が作れれば、世界の中で日本としての責任を示さなくてはならないような場合は、「自立・自己責任」党のほうに政策が振れるが、多少は国内にばら撒く余裕ができたときには、「甘え・無責任」党の政策も実現するという、かなり理性的にバランスの取れた政府を作ることができる。ポイントは、ホンネを隠すのではなく、カムアウトするところ。これさえできれば、将来はそれ程悲観することもないだろう。


(08/02/15)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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