精算すべきスキーム






日本の近代を語るとき、そこには二つの大きなスキームを考える必要がある。とはいっても、それは「一般常識」で考えるような、「戦前」対「戦後」ではない。同様に、「大日本帝国憲法」対「日本国憲法」でもない。近代を塗り分ける、二つの相容れない流れ、それは「明治憲政体制」と「40年体制」である。「有責任階級による有責任体制」と「無責任階級による無責任体制」とも言い換えられる。

明治憲政体制は、大正デモクラシー以降、無責任社会を求める大衆社会の発展と共に、揺さぶられるようになる。このせめぎあいが続く中、昭和10年代に入ると、戦時体制の推進と共に、一気に大衆政治のほうへ舵を切ってゆく。すでに何度も述べたが、下克上の青年将校、社会主義的計画経済を信奉する維新官僚に無産者出身者が多かっただけでなく、当時の無産政党も、求めるものは同じであった。

この結果、大衆側が勝利し、生まれたものが日本的社会主義である「40年体制」である。しかし、これを推進した当事者自身が稀代の無責任主義者であったがゆえに、太平洋戦争の敗戦という機会を利用し、自分達の責任を曖昧にするべく、ゆがめられた歴史観を導入した。これが、「戦前」対「戦後」という考えかただ。つまり「戦後」という認識自体が、40年体制という連続性を否定し、「無責任」化するために生まれたものといえる。

さて、大日本帝国憲法下の天皇制の特徴は、権力こそあるがものの、元来、思想・イデオロギー的には極めてニュートラルで色がないところにある。いわば騎乗するパイロットにより行動が全くことなる、ガンダムなどの「モビルスーツ」のようなものである。誰がどういう意図で操縦するかで、行動の結果は180゜異なってきてしまう。大日本帝国憲法下の国家機構も、誰がそれを采配するかで、全く違う結果を生み出すものであった。

これは大日本帝国憲法下の国家が、きわめて高いフレキシビリティーを持っているコトを意味する。国家体制のフレキシビリティーの高さは、変化に柔軟に対応できるというメリットも大きいが、「解釈」により何でもできてしまうという、いかにも日本的な弱さも持っている。まさにこの弱さが表に出てしまったのが、大衆社会化が進む中で軍国主義が加速した理由である。造ろうと思えば、極めて無責任な社会を構築可能だったのだ。

江戸時代以来の有責任階級が存在していた時代は、正義感のあるパイロットが操縦しているようなモノであり、国家リーダーの責任の元、全体最適を踏まえた、きちんとした進路判断ができた。ところが、そういうリーダーシップを持った人材ではなく、大衆社会の中で、偏差値だけ高く責任感のカケラもないような、無産者出身者が、官僚でも軍人でも中枢部を握るようになると、この国家はたちどころに無責任国家に変貌する。

こうなると、「色のない」体制は、各部門の利益と思惑だけで動く、部分最適の鬼のような組織となってしまう。まさに、40年体制の本質はここにある。「アメリカが、戦後日本を骨抜きにした」という言い方もあるが、これは、40年体制を構築した官僚や軍人の責任を曖昧にするだけのもの。自分達の責任を、アメリカに押し付けているだけのことである。自虐史観は無責任だが、全部アメリカのせいにするのも無責任である。

大衆社会化、数で正当化する民主化、リーダー不在といった状況は、そもそも、40年体制が明治憲政体制を打破した、昭和10年代のファシズムの流れの中にビルトインされており、太平洋戦争の結果に関わらず、早晩実現されたものと考えて間違いない。あの忌まわしき「農地改革」も、すでに昭和10年代に、小作農出身者も多い「維新官僚」たちの手により構想されていた。

だからこそ、戦後「改革」が、あれほど短時間で、スピーディーに実現したのだ。もっとも、40年体制の本質が無責任体制にあることは、アメリカ自身は見抜いていただろうし、戦略的か創発的かは別として、そこに目をつけて日本を弱体化させようと考えたことは間違いない。それにより、日本の無責任社会化が一段と加速したことも間違いない。その意味では、アメリカの思惑が無責任社会化を後押しした、ということはできる。

戦時体制は、軍国主義に本質があるのではなく、無責任主義に本質がある。後、大衆の心情は、「天皇陛下様」の崇拝から、「マッカーサー元帥様」の崇拝へすんなり移行した。崇拝対象は、ありさえすれば責任転嫁ができる。それがなにものであるかは関係ない。心理的構造の本質が、全く変わっていないところにこそ、無責任社会の真実がある。今真に必要なのは、戦後スキームの清算ではなく、戦後をも含む「40年体制」スキームの清算なのだ。


(08/02/22)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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